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【NBA】数々の挫折を伝説に変え、スーパースターになったレブロン・ジェームズ(前編)

読んでくださり、ありがとうございます。
サッカーも好きだけどNBA見ることも多くてバスケの記事もたまには書こうと思う。

今回紹介したいのはレブロン・ジェームズ。
言わずと知れたNBAのスーパースター。
NBAのこと知らない人でも名前だけでも聞いたことある人も沢山いると思う。
パワー、スピード、テクニック全てを備えた超一流プレイヤー。
愛称は「キング」

今回は、レブロンがどうやってNBAのスーパースターにたどり着いたのか?
彼の伝説について書こうと思う。

貧しい少年時代

レブロン・ジェームズはオハイオ州アクロン市に生まれる。
レブロンの母・グロリアは16歳で出産し、女手ひとつでレブロンを育てる。
グロリアが19歳の時、彼女の母が他界したり、不安定な精神状態のままレブロンは育てられた。生活は厳しく低所得者用の住宅にさえ住めないような家庭環境だった。小学校4年生まで3分の2を友人宅にグロリアとレブロンが住まわせてもらったり、時には車中泊する時期もあったそうだ。 

そんなある日公園で遊んでいた時にブルース・ケルカーという人物からアメフトのチームに誘われたことをきっかけにアメフトを始める。
アメフトは道具にお金がかかるスポーツで最初は断っていたものの、レブロンのスポーツ選手としての素質に惚れ込んでいたブルース・ケルカーが道具の補助も送り迎えも全て面倒みることと自分の家に親子二人で居候しても良いという条件でチームに入る。そしてそれが彼のアスリート人生の始まりだった。

あまりにも強く速く大きかったため相手チームからは出生証明書を求められたこともあった。しかし自分の貧しい生活にコンプレックスを抱えていたレブロンにとって、目立つことが苦手で、それがレブロンを苦しめていたのだった。そんなレブロンに対し、ケルカーが自分の生い立ちに誇りを持って胸を張ることの大切さを伝え続けた。後にバスケに専念するためにアメフトをやめたレブロンだったが、ケルカーとの出会いがなければ今日のNBAの活躍はなかったのかもしれない。

バスケの出会い、NBAの顔となる。

次に居候した家がフランク・ウォーカーという人物の家だった。彼との出会いがバスケットの道へと進む最大の原点となった。
抜群の身体能力と恵まれた体格ですぐに頭角を現し、中学2年の時にはチームを全国2位にまで導いた。
高校ではセント・ビンセント=セント・メアリー高校に入学。
高校生でありながらスポーツイラストレイテッド、スラムマガジンの表紙を飾り、ESBNマガジンの全米放送が来るなどNEXT マイケルジョーダンと呼ばれ順調なキャリアを進んでいく。

全米が注目した2003年全米ドラフト会議。
レブロンは全体一位指名でキャバリアーズに入団する。
それまでのキャバリアーズは決して強いチームではなかった。
数年にわたりシーズン毎に監督が解任されたり、
直近の02−03シーズンでは17勝65敗まで落ち込んでいた。そんな低迷していたチームにとってレブロンの加入は球団に一筋の光を与えた。

そんな過度な期待を背負った18歳の青年は
1年目のシーズンから期待通りの活躍を見せる。
20.9得点5.5アシスト5.9アシスト(1試合平均)
の成績を残し、新人賞を受賞する。
そんな順風満帆のレブロンに見えたが一年目のシーズンは意外な相手から苦しめられていた。
それは本来ならば一番信頼を置けるはずのチームメイトから受ける嫌がらせだった。レブロンのことをよく思っていなかった一部のチームメイトから陰口を言われる日々。ある選手からは公式なインタビューで「レブロンのポジションにはもっと良い選手がいる」など発言されたこともあったり、ペアで行うはずの練習をペアが組まれなかったなんてことも度々あったそうだ。
人間関係も良くない状況で十分なサポートを受け入れられずにいたレブロンだった。それでも3年目からレブロンの活躍もありチームはプレーオフに進出できるまでとなる。

そして06–07、最大のチャンスが訪れる。
東地区ファイナルに進んだキャバリアーズ。
相手は05–06のプレーオフで敗れたデトロイトピストンズ。
圧巻だったのが3勝2敗で王手で迎えた6戦目。
残り2秒の決勝ゴールを含め、最後の25得点をひとりで取る大活躍で
遂に自身初の決勝まで勝ち進める。
しかし西地区とのファイナルではチーム力で劣るスパーズに4戦全敗を喫した。レブロンもフィールドゴール35%と精彩を欠いた。

07-08シーズンでは、通算10000ゴールを達成。
23歳59日での記録でそれまでのコービーの24歳193日の記録を大幅に更新した。
このシーズンの成績は30.0得点7.9リバウンド7.2アシストとMVP級の数字を残し、自身初のリーグ得点王に輝いた。
チームはプレーオフ準決勝で敗退した。
09-10、29.7得点7.3リバウンド8.6アシストの数字を残し、
シーズンMVPを獲得する。
一方、チームとしてはプレーオフでまたも準決勝の壁を超えること出来なかった。それでも23歳の少年は確実にNBAの顔だった。

NBAの顔から嫌われ者へ

そして、07-08のオフシーズン、大きな決断をする。
FA権を取得し全米がレブロンの動向を注目する中、
なんと生放送のテレビ番組でマイアミ・ヒートへの移籍を発表した。
キャバリアーズのフロントさえも生放送の直前に知らされていなかったそうだ。
キャバリアーズのフロント、ファンは大激怒。レブロンのユニフォームを燃やすファンもいた。
又、移籍したヒートはその年クリス・ウォッシュも加入し、
ドイン・ウェッド、クリス・ウォッシュ、レブロン・ジェームズとメディアからはBIG3と呼ばれるようになる。故郷のチームでもあったキャバリアーズを裏切り、BIG3を結成したことからもNBAファンからの反感を買うことになり、NBAの顔は「悪役」と呼ばれるようになる。

初年度の10-11シーズンでは、
序盤こそ苦戦するもシーズン1位でプレーオフへ進み、
その後もプレーオフも制したヒート。
ファイナルでは、ダラス・マーベリックスと激突。
4度目のファイナルに挑むレブロン。
大方の予想ではヒート優勝だった。
さらにマーベリックスは第1戦で中心選手だったノビツキーが負傷もあったり、
完全優位な状況だったものの結果は2勝4敗。
マーベリックスに覇権を渡したのだった。
レブロンはというとシーズンの活躍が嘘のように大失速。
今回はチーム力に恵まれながら、
優勝を逃し、シーズンではMVPを取り、
選手としては完全にNo.1の称号を得ながら
敗戦の原因はレブロンと批判され、
大舞台では活躍できない
そんなレッテルを貼られるようになった。
又、第5戦の試合前には高熱を出したノビツキー。
高熱、負傷をおして出場したノビツキーに対してウェイドとレブロンが侮辱した言動を行なったことからもNBAの「悪役」という不名誉な称号は更に加速していた。

伝説のパフォーマンス

11-12シーズン。
ファイナルでオクラホマシティー・サンダーに4勝1敗で下し、初の栄冠を取ったレブロンだったが、この年のレブロンにとって語らずにはいられないのが東地区プレーオフ決勝、第6戦。
相手はセルティックス。
3勝2敗で後がなくなったヒート。
「やっぱりあいつは優勝させられない。」
またしても批難を浴びるレブロン。
そんな追い込まれた状況の中、
この日のレブロンは歴史に残る活躍で周囲を黙らせた。
45得点15リバウンド5アシスト。
フィールドシュート成功率73,1%。
完璧な数字で、絶体絶命のチームを救う。
プレーオフの歴史の中でもファンの間でも最もインパクトを残したと語り注がれるほどの伝説のパフォーマンスだった。

レブロンの使命

優勝できないという呪縛から解放され、
翌年の12−13シーズンでも2連覇を達成。
13−14ではファイナルでスパーズに敗れたものの、BIG3結成してからの4年間で4度のファイナル進出、2度の優勝を果たしたヒート。
そして13−14のオフでレブロンは大きな決断を下す。
FA権を取得したレブロンが選んだ新天地は、キャバリアーズだった。
衝撃の移籍から4年後、自分が生まれたオハイオ州に戻ってきたのだった。かつては自分の名誉のため故郷を捨てたと言われ、嫌われていたチームに戻ることは相当な覚悟だっただろう。

キャバリアーズの本拠地はオハイオ州クリーブランド。1964年にNFL(アメフト)のクリーブランド・ブラウンズがチャンピオンになって以降、50年に渡ってアメリカの4大スポーツではチャンピオンチームが生まれてなかった。
そんな自分の生まれた街にチャンピオンシップをもたらすため、レブロンの新たな挑戦が始まった。

次回に続く、、、


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