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「仲良しごっこ」の「お遊び集団」?

ご自由にお書きくださいと言われているのでご自由に書くことにする。誰も読まないだろうし。現在am 2:40。
なんとなく寝付けないので書く。文章を書くのは気持ちいい。
昨年は十数個の記事を書いた気がする。自分で自分を気持ち良くするための文章だから無価値な生産だけど、それでも自分で自分を楽しませられるのはいいことだと思う。
万が一誰かの目に入ってしまい、何かまずいことが書いてあったらと思うとそこは心配になるが、もしそうなってもどうか許して欲しい。

現在219文字。無価値でも無意味でも、そういったものが時間を適度に潰してくれる。
そう、無価値で無意味なものが日常を形作っている。

例えば、そうだな、「仲良しグループでおしゃべりすることが目的のバンド」とかどうだろう。「キャッチボールをしているだけの超弱小野球部」でもいい(流石に今どきそんなのないのか?)。
Q.彼らは無価値か?
A.価値観による。

思春期の頃はそういうものにちょっとした嫌悪感まであった。誰しもそういう経験はないだろうか。あんなことやってても意味ないのに、とか、本気で何か目標を目指さないお遊びの集団かよ、一生仲良しごっこやってろ、とか。
仲良しごっこ。まさにキラーフレーズといった感じである。

ここまで511文字。いとも容易くあっさりと書けた。やっぱり文章を書くのはいい。これからもたまにやっておこう。

で、仲良しごっこである。これがなんか軽視されていた気がする。昔の僕にとっては。いや別に尖った思想を持っていたわけではないが、”目標”とか”充足感”のない、ホワーンとした行い、または空間、または関係性に何か疑問を持っていた時期があった。その僕が成長したのが今の僕だから、当然今も全くの他人になったわけではないのだけど。

今だからこそわかる。喫茶店でおしゃべりするような「仲良しごっこ」をする関係を築くのは、普通に尊い能力であると。”目標”も”充足感”もない、勝ちも負けもつかない余興が、ことのほか生きていくには重要であること。というか、そういうのを得るのだって、工夫と勇気が必要だっていうこと。維持するのはこれはもう奇跡と言って差し支えない。必ずどこかで関係は壊れ、変形し、分散する。

3:00を回った。なんとも中途半端な、そしてなんの教訓ももたらさない思考の振り返りだったけど、眠いので終了。続きもなし。これにておしまいである。

今年もちょっとずつでいいから希望の方角に向かい、ちょっとずつでいいから自分を褒め、ちょっとずつでいいから人に優しくなり、ちょっとずつでいいから成長し、ちょっとずつでいい、勇気を持って行動したい。

1月もお疲れ。