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【エッセイ】娘さんを幸せにします……たぶん……

 先日、とある映画を観ていると次のような場面があった。
 主人公の男性が結婚の許可を貰いに、付き合っている女性の実家に挨拶に行く、というよくあるシーンだ。
 
 女性の実家は、立派な瓦屋根の平家で、庭も広い。スーツを着込んだ主人公の男性が、緊張の面持ちで玄関に入ると、優しそうで品のある女性の母親が出迎えてくれる。挨拶もそこそこに家にあがると、居間では、神妙な面持ちで、気難しそうな女性の父親があぐらをかいて座っている。母親が4人分のお茶を運んできて、主人公の男性、交際相手の女性、それからその父親と母親が、それぞれテーブルを囲むように座に着く。しばしの気まずい沈黙のあと、主人公の男性がついに口を開く。
「あの、本日はお時間作っていただきありがとうございます。娘さんとの結婚を許していただきたく、ご挨拶に参りました」
 父親は険しい顔のまま、口を開かない。男性はごくりと唾を飲み込むと、言葉を続けた。
「娘さんを、娘さんをぼくにください!」
 同時に、男性と女性は揃って頭を下げる。しばらくして、父親がゆっくりと口を開く。
「……幸せにできんのか」
 主人公の男性が顔をあげる。
「はい! 娘さんを絶対に幸せにします!」
 鋭い目つきで睨みつける父親、その視線に負けじと目を逸らさない男性。しばらくすると、父親がぼそりと口を開く。
「かあさん、ビール」
 すると、母親は顔をぱあっと明るくして、手をポンと叩くと、中瓶とグラスを持ってくる。男性と父親は、お互いに酌をして、ぎこちなくグラスを合わせる。それから、用意してあった料理が次々と運ばれ、宴会が始まる。
 見事、結婚の挨拶は大成功であった。素晴らしい。いや、素晴らしい。
 
 ちなみに映画の中でこのシーンは、とても短くあっさりと流れる。というのも、映画の本筋とはこの場面はあまり関係がなく、夫婦の過去の回想の中のひとつのエピソードとして扱われるからである。だが、ぼくは個人的に、このシーンがやけに印象に残ったのだ。割とよくあるシーン。よくあるセリフ。「娘さんを絶対に幸せにします!」。
 『絶対』という言葉はとても、強い言葉だ。もし、ぼくが主人公と同じ立場になったとしたら、果たして、強面の義父に対して、堂々とメンチをきって、「娘さんを絶対に幸せにします!」と言い切れるだろうか。そんなことを、お付き合いしている彼女すらいないのに、先走って考えてしまったのである。



 大学生の頃、友人と2人で同じバイトに応募したことがある。ぼくにとって初めてのバイトの応募であった。学校と家との間にあるコンビニのバイト。大学生で時間もあったし、家も近い、条件は申し分なかった。
 面接の日、バイト情報誌の最後のページにある履歴書を面接の直前に慌てて記入した。志望動機の欄にはなんと書いただろうか。はっきりと覚えてはいないが、家が近い、とか学校が近い、とかやる気のかけらもない内容だったことは覚えている。それでも、そうそう落とされるものではない。なんていったってバイトの面接なのだ。ぼくは、何の根拠もない自信を引っ提げ、意気揚々と面接に向かった。
 コンビニにつき面接で来たことを伝えると、少し疲れた表情の男性にバックヤードに連れて行かれた。パイプの丸椅子に向かい合って座り、店長だと名乗ったその男性に、ぼくは急ごしらえの履歴書を手渡した。店長はざっと履歴書に目を通し、「お、〇〇大なんだねー」「うん、家も近いね、いいね」などと呟くと、視線をあげ質問を始めた。
「週に何回くらい入れそう?」
「そうですね、2〜3回を考えてます」
「そっか、土日は入れる?」
「土日ですか? えーっとそうですね、うーん、はい。あっいや、全部はちょっと無理かもです」
「あ、うん。全部じゃなくていいんだけど、土日、入れるかな?」
「あー、そうですね。たぶん、大丈夫です。たぶん」
「土日おっけいね」
 そういうと、店長はぼくの履歴書に何かを書き込んだ。あれ、大丈夫かな。土日全部入れるわけじゃないんだけど、伝わってるかな。ぼくの頭の中に不安がよぎる。
「えーっとじゃあ年末年始は入れるかな?」
「え? 年末年始ですか?」
「うん、あとはクリスマス、GW。あとはお盆の時期とか」
「あ、あーえっと」
 正直、そんなことわかるわけないじゃないか、と頭の中では考えていた。そのときは大学に入学してしばらく経った5月頃。年末の予定などわかるはずもない。
 実家に帰省するかもしれないし、授業が思ったより忙しくなるかもしれない。それから彼女ができるかもしれない。そうしたらクリスマスは聖なる時間を過ごしたいだろう。それに、特にたいそうな理由はなくとも、長期の休みはダラダラと過ごしたいかもしれない。怠惰な自分のことだ、夕方暗くなってきても布団にくるまったままの姿が容易に想像できるぞ。そもそもその頃まで、このバイトを続けているかどうかすら、わからない。わからない。わからないぞ、そんなこと。
 様々な考えが一瞬でぼくの頭の中を駆け巡る。
「どうかな? ここのアルバイトさん学生が多いから、そこはみんなの助け合いになるんだけど」
「あ、えーっと、どうすかね。うーん。いや、入れなくはない、かとは思うんですけど。いやでも、ちょっと」
 はい、とも、いいえ、とも言わないぼくの様子に、店長の顔が明らかにイラつくのがわかった。それでも大人は声の調子は変えずに、質問を続ける。
「じゃあ、例えば、さっき週2〜3って言ってたけど、人が足りない週に4日入ってもらったりすることはできるかな?」
「え? あ、いや、どーすかね。ちょっと無理……あ、いやわかんないです」
 ぼくの、答えを聞いた店長は、声をワントーンあげた。
「はい! わかりました! じゃあ、もし採用なら一週間以内にこちらの連絡先にこちらから連絡させてもらいます。もし不採用の場合は、こちらから特に連絡はしないので、その点はご了承ください。うん。じゃあ本日はありがとうございました!」
 強制終了。圧倒的他人行儀。必要以上の丁寧な言葉遣いは、人を突き放す壁になりうる。二度と会うことのない相手に対してのみ見せる、貼り付けたような笑顔と声色。ぼくは悟った。あ、確実に落ちた。
「あ、ありがとうございましたー」
 細い声で礼を伝えたが、すでに店長はぼくに背を向けていた。 

 次の日が同じバイトに応募した友人の面接の日だった。その日の夜、面接終わりの友人と居酒屋で待ち合わせて、一緒に飲むことにしていた。
 先に店に入って、ぼくがビールを飲んでいると、友人が遅れて現れる。
「お、おつかれー」
 学生特有の、謎のお疲れ様をお互いに交わし、友人はビールを注文する。
「で、どうだった?」
 ぼくは、我慢しきれずに、友人のビールが届く前に質問する。
「どうって? 受かったよ、普通に」
「は?」
 友人のビールが到着した。「かんぱーい」とぼくのグラスに当てると、彼は美味そうに喉をならす。
「受かったって、なんだよ。面接さっきだろ?」
「うん、だから、その場で、いつから来れる? って聞かれたけど、お前は?」
 今回の面接が初めてのバイト応募だったので、ぼくは割とショックを受けた。なんというか、自分がダメだったのは、なんとなくわかっていたけれど、ここまで対応に違いがあるのか、と、お前はダメなやつだと、レッテルをべたりとおでこに貼り付けられた気がした。
 その後、友人に面接の様子を話すと、彼は大きく声をあげた。
「そりゃあ、落ちるよお前」
「なんでだよ?」
「土日入れる? って聞かれたら、出れます! って答えんだよ」
「いや、でもさ」
「長期の休み入れる? って聞かれたら、出れます! って答えんだよ」
「だって、わかんないじゃんか」
「わかんなくてもいいんだよ、とりあえず出れますって答えれば」
「だって、出れないかもしれないだろ?」
「お前、考えすぎなんだよ。出れます! って言っといて、とりあえず受かればいいんだよ。それで、もし実際に出れないってなったら、すみません! って謝ればいいじゃん」
「でも、それだと嘘になるじゃん」
「嘘じゃねぇよ、それは。そういうもんだよ」
 納得がいかなかったのを、よく覚えている。この友人とはしばらくして、疎遠になってしまったが、風の噂で、一流企業に就職したと、聞いた。
 「出れます! って答えんだよ」と声をあげていた彼の顔が浮かぶ。きっと、これは正しいのだろう。生きていれば、どうだろうか? とグダグダ悩むのではなくハッキリと言い切ることが必要になる場面というのがあるのだろう。
 もちろん、ぼくの初めてのバイト面接は不採用だった。一週間経っても連絡はこなかった。それに加え、家と学校の間にある、非常に便利の良い、そのコンビニを利用する権利も同時に失ってしまったのである。




 「娘さんを、きっと幸せにします! ……たぶん、できると思います。あ、でも。いやー、どうかな。幸せにできればいいな、とは思ってるんですけど……。でも、ほら、どうなるかなんてわかんないですし……ね……。だから、娘さんを、幸せにできればいいなぁ、なんて、そんな風には考えてます」

 こんなことを、結婚の挨拶に来た、ただでさえ憎い男に言われたら、それは伝説の「お前みたいな、どこの馬の骨ともわからん男に娘はやらん!!」というセリフが拳とともに飛んでくることだろう。当たり前だ。どれだけ自信のない男なんだ、そいつは。
「娘さんを絶対に幸せにします!」と言い切るということは、それだけの覚悟をみせる、ということなのだろう。もちろん、その言葉に嘘があってはならないが、そのセリフを言い切る、ということが重要なのであって、それによって、強い覚悟と責任を表明するのだろう。それに、もしその後、結婚して離婚することになったとしても、その時点では嘘偽りのない真実の言葉であったのは覆らないだろう。『絶対』ということは『絶対』に存在しない、などと言われることもあるが、このシチュエーションにおいての『絶対』は、その時点で『絶対』なのだ。それは言葉の意味を超えて、人としての覚悟や責任を表す手段なのだろう。だから、きっと言い切らなくてはならない、場面というのは存在する。例え、頭の中で、様々な可能性がよぎったとしても、それらをかなぐりすてて、言い切る、そんな人としての強さが必要になる場面もあるだろう。

 頭では、わかるのだ。
 バイトや就職の面接でも、結婚の挨拶でも、言い切る。それが正解なのだと。
 でも、ぼくの頭の中には、無責任さが顔をのぞかせ、「でも……」と未来のひとつの可能性を必要以上に大事にする。無責任で弱く情けない、ぼく。いつか、強く言い切れるようになるときがくるのだろうか。それは年齢的にも、精神的にも成長して、そうしていつかは言い切れるようになるものだろうか。きっと、とか、たぶん、とか。自分の責任を逃れられる道を残そうとしてしまう、そんな弱いぼくでも、いつか強くなれるだろうか。悶々と自分に問いかけながら、ぼくは今日も言い訳をして生きている。




 先日、冒頭とはまた別の映画を観た。
 主人公はブラック企業に勤める青年。毎日仕事に追われ、自分の時間など持てるはずもなく、わずかな睡眠時間でなんとかこなす日々。上司からのパワハラと無理なノルマに苦しみ、精神をすり減らしていく。ついに限界を迎え、自暴自棄になり、自殺を試みる。そこに現れるのが、主人公の友人だ。彼は主人公を救い、そして共に、寄り添うように、時間を過ごす。その中で、彼は主人公に、このように語りかける。
「絶対大丈夫だから」
「お前なら、大丈夫だから」
「俺は絶対に、お前の味方だから」
「絶対、大丈夫」
 もちろん、何の根拠もない。当然だ。未来のことなんて誰にもわからない。
 だけど、彼は言い切る。強い言葉で、確かな目で、訴える。絶対に、大丈夫だと。

 ぼくは、少しだらしなく、無責任なところがある。
 これは癖のようなもので、頭の中に「でも……」という逃げ道を浮かべてしまう。こうやって自分を甘やかしてるのも、悪いところだろう。
 でも、もし実際に自分の周りに苦しんでいたり、助けを必要とする人がいたのなら、そのときばかりは、くだらない言い訳などせず、強い自分でありたい。
 「絶対に大丈夫」
 そう、力強く声をかけてあげられる、そんな人に、ぼくはなりたい。  

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