水族館の花形
イルカの水槽の前には人集りができていた。ぐるぐると元気よく泳ぐ二匹のイルカが近くを優雅に泳ぎ去るたび、歓声があがる。その人集りを、うしろから少し爪先立ちになって、ぐるりと見渡してみるが、その中にタケルの姿はなかった。
イルカをみつめる大人と、それから子供たちの顔は水槽と薄暗い室内のせいで、青く浮かび上がって見える。
祝日ということもあって、地元の水族館はそれなりの人入りをみせていた。まだ1歳になったばかりのミキがぐずり出して、少し気を取られている隙に、2歳年上のお兄ちゃんであるタケルは、奥に奥にひとりで進んでいってしまった。ミキをベビーカーを押す妻に預け、急いで後をおいかけた。
順路の赤い矢印をたどりながら、左右で水槽を覗き込む子供たちをそれとなく確認しつつ、イルカの水槽までやってきたのだ。てっきりここにいると思っていたのに。そもそも、タケルがイルカを見たいと言うから、今日は水族館にやって来たのだ。歓声を背に、もうしばらく進むと、左の正面に、赤と白のボーダーのTシャツ姿のタケルをみつけた。あんなところに。タケルは、ひとつの水槽の前に膝を抱えるように、しゃがみ込み、手のひらをぴたっと水槽につけて、顔をギリギリまでくっつけていた。
「タケル、勝手にひとりで行ったらダメやないか」
「とうちゃん、みてみて」
タケルは隣に立った、父親に目もくれない。
よいしょ。タケルの隣に同じように、しゃがみ込む。気づけば、親父臭くなったものだ。タケルの小さい手はぷっくりと柔らかそうにみえる。
「ほらっ、そんなベタベタ水槽を触ったらだめやろ」
「とうちゃん、ほらっ。こいつ、すごいやろ」
タケルがみつめる魚は、大きく、灰色で、鱗がくすんでいるようにみえた。泳ぎ回ることもなく、どっしりと海底を模した白い砂のわずか上を、だだよっている。タケルが顔を上げる。うっすらと頬がピンク色になっている。もしかしたら少し走ったのかもしれない。
「大きいお魚やなぁ」
「なっ! おもろいやろ!」
タケルが興奮した声をあげる。灰色の魚は、つまらなさそうに、口をパカっと開けた。その動きで底の砂が少し舞う。
「タケルはこいつが、おもろいんか」
「うん! こいつ絶対おじいちゃんや! かっこええなぁ!」
そういうと、タケルは目をきらきらさせて、ずいずいと顔を水槽に近づける。
「イルカはみたんか?」
「うん、みた」
「あざらしもおったで。あれもみたか?」
「うん、みた」
タケルは灰色の魚から目を離さない。タケルの頬は赤く、それからわずかに青く照らされている。灰色の魚が尾ビレをわずかに振った。しかし、泳ぎ出すわけでもなく、ただそこで浮かんでいる。
「しかしこいつ、全然動かんなぁ」
トントンと人差し指で灰色の顔のあたりを叩いてみる。
「おじいちゃんやからな! 腰がいたいんや!」
タケルは相変わらず、目を離さない。
「イルカ、もうええんか? みんな集まっとったで。ブワッて、ぐるぐる泳ぎよったで」
「おれは、こいつがええ」
灰色の魚はもう一度、口をパカっと開くと、今度は同時に目をぎょろっと動かした。
「そうか」
タケルの頭を軽く撫でてやった。やっぱり走ったようだ。小さい頭は少し汗ばんでいた。つやつやと滑らかな髪を撫でる、その手は骨張っていて、しわも深くなった。
このままで、いればいい。タケルがこのまま、このままでいてくれればいい。
少し足が痺れてきたが、それでもタケルと並んでしゃがみこんだままでいた。
「かっこええな、こいつ」
「そやろ!」
タケルは本当に嬉しそうに笑った。
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