だから今日もぼくはノロノロと下を向いて歩く
散歩をしているぼくの前をスーツをビシッと着こなした男性が歩いている。年齢は30代後半くらいだろうか。少し日焼けした肌に、刈り上げた襟足、ワックスで濡れたようにもみえる髪の毛にはパーマがあてられている。身につけているスーツや手に握られている鞄は高級そうにみえる。
彼はスマホを耳に当て、誰かと話しながら前をしっかりと見据え、胸を張り一歩一歩力強く進んでいく。
それに対しぼくは、少し寝癖のついたままの頭、寝る時にも履いていたスウェットパンツに首元の伸びたTシャツという格好で、背中を丸めサンダルをペタペタと鳴らしてノロノロと歩いていた。
ぼくはぼんやりと就職活動をしていた時期を思い出した。
あまり思い出したくない記憶だ。
ぼくがいるのは、とあるウェブ広告の会社の会議室。
その日は最終面接、社長面談の日だ。
自分が何をやりたいのかもわからないまま、とりあえず年収や業界で絞った企業にエントリーして、それに通ったらとりあえず面接に向かう日々。
そんな中、幸運にもグループ面接や1次、2次面接を潜り抜け、ようやく最終面接まで漕ぎ着けた企業だった。
最終面接までくればほぼ受かったも同然。そんな都市伝説を耳にしていたこともあり、ぼくは「ようやく内定がもらえるかもしれない」という期待をもって面接に望んだ。
人事のお姉さんに呼ばれ、社長室へ向かう。
ノックをして、入室する。
そうして、部屋に入った瞬間にぼくは悟った。
部屋の中央に座した社長は、これまでぼくが会ったことのある大人の誰よりも迫力に満ちていた。
やはり少し日焼けした肌にたくましい腕、ジャストサイズのポロシャツの胸の部分は筋肉で盛り上がり、髪の毛は短く刈り上げられ、目力の溢れる鋭い眼光からは強い意志と信念を感じた。
彼の周りにピリピリとした電気にも似た何かを感じ、ぼくは彼の纏う、その存在感こそを人はオーラと呼ぶのだろうと思った。
きっと、その部屋に入室した時点で結果は決まっていたのだろう。
その後、面接は行われたはずだが、ぼくはほとんど覚えていない。
社長の存在を一目見たその瞬間に、ぼくの用意してきた付け焼き刃の就活テクニックは通用しないのだと悟った。
社長は淡々としていた。
ぼくはとにかく逃げ出したくて仕方がなかった。
そんなぼくの気持ちさえも全て見透かされていると思った。
受かりたいとか就活を終わりたいとか、そんなのはもはやどうでもよかった。
はじめはノートに何かを書き込んでいた社長だったが、そのうちその手は止まり、そしてついにはノートは静かに閉じられた。
ぼくはとにかくその場から逃げ出したかった。
どんな物事も時がたてば終わる。
面接が終わり、部屋を出たぼくの顔は真っ白になっていたのだろう。
人事のお姉さんが言葉に詰まったのがわかった。
社長は終始淡々と喋った。
ぼくはお姉さんの今後の説明を上の空で聞いた後、逃げるようにその会社を飛び出した。
それからしばらくして、その会社からメールが届いた。
電話ではなく、メールである。つまりそういうことだ。
ぼくは落ちた。
ぼくの前を歩く、スーツを着た男性は、ぼくを置いてどんどん先に進んでいく。
ぼくは彼の背中を目で追いながら、ノロノロと歩く。距離はどんどん広がっていく。
彼が渡り切った横断歩道の信号が変わり、ぼくはそこで立ち止まる。
その間にも彼はどんどんと前を向いて歩いていく。その背中はどんどんと小さくなる。
無性に焦りを感じてしまうのは何故だろうか。
脇腹をつーっと流れた汗は、近頃暖かい日差しのせいか、それとも違う何かのせいか。
信号が青に変わり、ぼくはようやく歩き出すが、前を歩いていたスーツの男性はもういなくなっていた。
下を向いてぼくが歩いていると、道の脇の木の根元に蟻が行列をつくっているのをみつけた。
ぼくはそこに近寄ってしゃがみこんで観察してみる。
どうやら蟻の巣があるようで、たくさんの蟻がせかせかと動き回っている。
ぼくはそんな様子をしばらくじっと見つめたあと、よいしょと立ち上がる。
そのときに、立ちくらみを感じ、その場でしばらく目を閉じて立ち尽くす。
そうして、収まってきたころに目を開けて上を見上げると、そこには空があった。
その日の空は、少し白みがかった青で、輪郭のぼんやりとした雲がいくつも浮かんでいた。
その瞬間にぼくの心が満たされていくのを感じた。
生きていると感じた。
胸につっかえた焦りを洗い流してくれた気がした。
ぼくは就職活動に失敗した、といえるだろう。
でも今思えば当然だ。
だってぼくは別にそこで働きたくなかったのだ。
ぼくが欲しかったのは、とりあえず就活を終えることのできる権利、あるいはきちんと就職しているという周りからの評価でしかなかったのだ。
当たり前だ。
ぼくの前を歩いていたスーツの男性は目標に向かって最短距離で社会の中を切り進んでいく。
それに対してぼくはノロノロと背中を丸めて歩いて、ときには立ち止まって、寄り道をして、そうして彼との距離はひらいていくばかりだ。
でも、その代わり、ぼくは蟻の巣を見つけた。
そこで生きる蟻の姿を目に焼き付けた。
それから空を見つけた。
その空はぼくの心を満たした。
もし、スーツを着た彼に「ぼくは蟻の巣と素敵な空をみつけたんだ」と言ったならば、彼は不思議そうな顔をすることだろう。
でも、それでいい。
ぼくの心は満たされたのだから、それ以外になにが要るというのか。
だから、今日もぼくはノロノロと下を向いて歩く。
ふらふらと寄り道をして、時には立ち止まって、そうして歩く。
ぼくにしか見つけられない、何かがあると信じて。
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