好き嫌い好き
この前読んだ本が個人的にあまり面白くなかった。
それは海外の小説を日本語に訳したものだったのだけれど、わかりにくくてイマイチ頭に入ってこなかった。
だけど、その本は小説として世界的に絶賛されている本だ。
たくさんの人が素晴らしいと認め、高い評価を受けている本だ。
逆のパターンもある。
自分がすごく面白いと思った小説があった。
しかし、世間的にはそれは酷評を受けていた。
そんなときに「ふーん」と思えればいいのだけれど、なかなかそうもいかない。
ぼくは、心のどこかで「自分の感じ方がおかしいのかな?」と自分自身を疑ってしまう。
まだ幼い頃のぼくは、面白いと思ったら「面白い!」とはしゃいだし、楽しければ「楽しい!」、好きであれば「好き!」と素直に手をあげた。
でもいつしか「面白い!」が「これ、面白い?」と疑問系になり、「これ、面白い……よね?」と相手にまず伺いをたてるようになり、ついには「これ、面白い……、あ、いや面白くないよね」と自分の感じ方を否定すらするようになる。
幼い頃の両手をあげて満面の笑みで、はしゃいで跳ね回って全身で自分の感じたことを素直に表現していたぼくは、いつしかいなくなっていた。
自分が素直に感じたことを疑ってかかるようになってしまったのは、いつからだろうか。
「小説が好き!」って言ったら「海外文学のアレは読んだの?」と聞く人が表れる。
「それはまだ読んでない」って言ったら「その程度で好きって言うなよ」ってその人は言う。
「サッカー観るのが好き!」って言ったら「先週のプレミアのあの試合見た?」と聞く人が表れる。
「いや、日本代表の試合しか観てない」って言ったら「そんなの好きとは言わないよ」ってその人は言う。
いつから好きって言うことがこんなに難しくなってしまったのだろうか。
どこかに見えないハードルがあって、少なくともそのハードルを越えていないと好きと言うことすら許されないようになってしまったのだろうか。
でも、「そのくらいで好きって大声で言うなんて……」と言ってしまう、そんな気持ちも理解できる。
もしその分野が自分が時間をかけて本気で勉強したり、学んだものだったら余計にそうかもしれない。
そういう、ずるい部分は人間誰しも持っているものだと思う。
でも、そんなずるいぼくは、本当は羨ましいだけなんじゃないかな。
素直に好きと言えてしまう、そのことを羨んでいるだけなんじゃないかな。
幼い頃のぼくは、どうだったかな。
もういなくなってしまったのかな。本当はどこかに隠れてるだけなのかな。
まだそこにいるのかな?
本来、好きだと思ったらそれでいい。それでおしまい。
好きな量とか熱意とかそんなものは競うものではないし、そもそも比べるようなものでもない。
自分が好きだと感じたことに引け目を感じる必要はない。誰かに遠慮する必要もない。
好きならば好きと、胸を張って言えばいい。
幼い頃のぼくは完全にどこかに行ったしまったわけではない。
まだ心のどこかで物陰に隠れているだけ。こっちの様子を恐る恐る伺っている。
優しく声をかけてあげれば、きっと顔をのぞかせる。
そうして、また笑ってくれる。
ね?
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