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【小説】もうすぐ、誕生日が終わる

「かち、かち、かち」 
 先ほどから、里中明美は時計の秒数が増えるごとに、ひとり声にならないくらいの声量でつぶやいている。時計、といってもデジタル時計なので、実際にその時計から秒針の音がしているわけではない。ただ、明美はその時計を睨みつけ、数字が1つ増えるたびに、その音をひとり勝手につぶやいている。
 薄暗い部屋。蛍光灯はついていない。明かりは、テーブルの上に置かれた暖色のオレンジを帯びたランプの光のみだ。フローリングに直に座り込み、明美はスマホを握りしめ、デジタル時計を睨みつけている。
「かち、かち、かち」
 時刻は、23時35分。いま36分になった。手元のスマホの時間を確認する。23時37分。明美の部屋は世界よりも1分遅れている。「かち、かち、かち」とつぶやいているこの間にも、少しづつ、少しづつ、でも確実に世界は明美を置いていく。 
 でも、そんなこと、たいしたことでははない。些細なことだ。確かなことは、あと20分ちょっとで、明美の誕生日が終わるということ。それから、彼からの連絡が今だに来ないこと。それだけ。
 がたがた、とベランダに続く窓が音をたてる。風が吹いているようだ。明美はカーテンの引かれていない窓に目をやるが、見た目では外の様子はわからなかった。
「かち、かち、かち」
 23時39分。明美はゆっくりと立ち上がり、その辺に落ちていたコートを羽織る。1分を取り戻しに行こう。スマホと財布だけ持つと、明美はサンダルをつっかけ外に出た。

 2月の夜。やはり少し風が強く、その風が冬の冷たさを際立たせた。風が正面から吹くたび、明美は思わず肩をすぼめる。無防備な足元が一段と冷たい。
 どこにいこうか。外に出てみたはいいものの、明美は行き先を決めていたわけではなかった。とはいっても選択肢も限られている。明美は、あまり明るいところには行きたくないと思った。細い道が古い街灯と自動販売機のわずかな明かりで照らされている。その明かりで暗い夜の中、薄く影ができる。少なくとも、人のいる、暖かい場所は、今の自分には相応しくないと思った。
 明美が一歩進むたび、ぺたぺたと間抜けな音が響く。コートのポケットにいれたスマホを握りしめたまま、明美は歩いた。1分では、なにも変わりはしない。静まった夜の中、風の音が通り過ぎた。

「フクロ、イリマスカ?」
「んーんいらない」
 結局、いくあてのない明美は、家から一番近いコンビニにいた。店内にいるのは、カタコトを喋る店員がひとりだけ。もしかしたら、裏の方にもうひとりくらいいるかもしれない。
 缶ビールをひとつ買い、そのまま外に出て、その場でプルタブを開ける。ずずっと上澄をすすった。
「つめた」
 明美はコンビニの明かりに背を向けるように、夜を向いて、その場にしゃがみ込んだ。
 しん、と静まりかえっている。繁華街から数駅離れた、この場所は、駅から5分も歩けば、あるのは住宅のみで、あたりには人々の休息の時間が流れている。時折、車がコンビニの前を走り去る。自転車にのった人が通り過ぎる。明美はそこにいた。
 明美の片手はコートのポケットに突っ込まれたままだ。そのポケットのなかでは、もちろんスマホがぎゅうっと握られている。スマホはならない。ビールを持つ手は冷たいが、もう片方の手は、わずかに汗ばんでいた。
 1台のタクシーがコンビニの前に停まった。運転席から降りてきた、くたびれた中年男性が吸い込まれるようにコンビニの自動ドアをくぐる。
「イラシャイマセー」
 店員のカタコトが聞こえてくる。

 家を出てから、どれくらい経っただろうか。1分を取り戻して、いま果たして何時だろうか。5分くらいしか経っていないような気もするし、15分くらい経ったような気もする。家からコンビニは歩いて5分もかからないが、ふらふらと歩いていた明美の意識は世界とは別のところにあり、そこでどれくらいの時間を過ごしていたのかは、明美自身にもわからないのだった。もちろん、コートのポケットからスマホを取り出して、時間を確認すればいいのだが、それは明美にとって、とてつもなく勇気のいる行動だった。だから、明美は、ならないスマホをぎゅうっと握りしめ、時間のわからない世界でビールをすするのだった。
 ひとりの男性が向こうから歩いてくる。大学生だろうか、上下グレーのスウェット、ふわふわした髪、耳にはピアス。ちょっとヤンチャなタイプかもしれない。彼はちらりと明美を見たが、すぐに視線をそらした。彼はコンビニの前に置かれた灰皿の横に立ち、タバコを吸い始めた。距離にして4メートルくらいだろうか。立って、スマホをいじりながらタバコを吸う彼と、しゃがみこんで缶ビールをすする明美。人と人とが関わらない距離。4メートル。
「アリガトゴザイマシター」
 自動ドアが開き、さきほどのタクシーの運転手が手に袋をさげて出てきた。背中を丸めて歩く後ろ姿を何気なく見ていると、運転手がポケットに手をつっこんだはずみで、何かの紙を落とした。運転手は気づかず、そのまま歩いていく。あ、と思い声をかけようとした瞬間に、隣から声がした。
「すみません」
 タバコを吸っていた彼は、吸い殻を灰皿に落とすと、小走りで運転手に近づき、落とした紙を拾い上げた。
「これ、落としましたよ」
 運転手は鈍い動きで振り返ると、彼から紙を受け取った。
「はぁ、どうも」
 運転手は面倒そうにわずかに頭をさげると、受け取った紙をぐしゃっと握りつぶしてポケットにいれた。そのままタクシーに戻り、車を発進させた。
 その場に取り残された彼は、しばらく無言でそこに立っていたが、しばらくして、振り返り再び灰皿の横に向かう。明美はその様子をじーっと見つめていた。振り返った時に、彼と視線があったが、彼はすぐに目をそらした。
 再び、ふたりの距離は4メートル。彼は新しいタバコに火をつけた。
「なんの紙だったのー?」
 明美は横にいる彼に、というよりは正面に向かって声をなげかけた。
「はい?」
 彼が首を明美に向ける。明美の声が届いたようだ。4メートルを超えて。
「さっきの。なんの紙だったの?」
「ああ、あれ。レシートでした」
「レシートかー」
「はい」
 ふたりしかいない夜のコンビニの前、不自然に大きな声が響く。
「くしゃくしゃってしてたねー」
「はい。別に拾わなくてよかったですね」
「もしかしたら、わざと捨てたのかもねー」
「そうっすね」
 会話が途切れる。明美はビールをすすり、彼はタバコの煙を細く吐いた。
「大学生ー?」
「え、あはい」
「そっかー。若いねー」
「えっと、お姉さんは——」
 彼はそこで言葉をきると、明美の全身を目でなぞった。
「変な格好っすね」
 そういうと、彼は薄く笑った。
 彼がそういうのも無理はなかった。明美の髪は綺麗に巻かれ、コートの中はドレスのようなレースの黒いワンピースだった。そのくせ、羽織っているコートはしわのついたダウンジャケットで、足元は素足にスポーツブランドのロゴが入ったサンダルなのだ。
「寒くないんすか?」
 彼は明美の足元を見ると、笑いながらそう聞いた。
「寒いよ。めちゃくちゃ寒い」
 明美は大袈裟に肩をすくめてみせた。
「そうすか」
 彼は乾いた笑い声をあげた。再び会話が途切れる。4メートルでは会話は途切れ途切れになるらしい。
 もう終わったかな。明美は、いまだにコートのポケットの中でスマホを握りしめていた。スマホは、なっていない。明美にとって求める機能を果たさないスマホは、少し体を重たくするだけの塊でしかなかった。
「私ねー」
「はい」
 彼は突然始まる会話にも、自然と答えた。
「誕生日だったの」
「え? そうなんすか?」
 そういうと彼は、自身のスマホで時間を確認した。
「あと3分くらいしかないっすよ」
 まだ、終わってなかったのか。
 意外とそんなに時間が経ってなかったようだ。明美はコートの中でスマホをよりいっそう強く握りしめた。少し、ほんの少しだけ、喜んでしまった。まだわずかに残されていた時間に、ちっちゃなちっちゃな可能性を提示されて、それに胸が動いた。3分では何も変わらないというのに。そのあまりの間抜けさに、自分でも心底嫌気がさした。
「あー。だからそんな格好なんすね」
 彼は納得したように笑った。
 明美は何も言えなかった。ぐっと唇を閉じて、自分の中のよくわからない感情をこらえるのに必死だった。そんな明美の様子を彼は不思議そうにしばらく見ていたが、「あ、そうだ」とつぶやくと、吸いかけのタバコを灰皿に落とし、コンビニの店内に入っていった。
 明美は戦っていた。もう終わっていたと思っていたのに、ふいに渡された3分間。その時間は、明美をよりいっそう孤独にさせた。
 1分も経たないうちに彼はコンビニから出てきた。そうして明美の前に立つと、スマホで時間を確認する。
「セーフ。間に合った」
 そういうと、彼は明美の顔の前に何かを突き出した。明美はゆっくりと視線を上げる。彼と目が合う。彼は笑っていた。
「これ、は?」
 明美は声を絞り出した。缶ビールを脇に置き、コートのポケットの中にあるスマホから恐る恐る手を離す。
「誕生日プレゼント。おめでとうございます」
 渡された、それを両手で受け取る。それは靴下だった。コンビニに売っている、グレーのなんの可愛げもない、地味な靴下。コンビニブランドで裏に値段が書いてあって、包装も袋すらない裸の状態の靴下。
 瞬間、明美の鼻のあたりに何かが込み上げてくるのがわかった。抑えようとする間も無く、それは目に到達して、じわりと溢れ出た。
「いやー、よかったっす。いいのがあって」
 うつむいた明美の上から、彼の言葉が降ってくる。
「うぇっうぇっ」
 ついには、明美の口から涙と共に声がこぼれた。
「え?」
「うぇっうぇっうぇっうぇっ」
 もう、それは止められなかった。一度こぼれた声は、抑えがきかず、喉の奥から嗚咽と共に次から次へと湧いてくる。
「うぇっうぇっうぇっうぇっうぇっうぇっうぇっうぇっ」
「えっ? えっ? どうしたんですか?」
 最初こそ、おろおろとしていた彼だったが、あまりにも明美が泣き止まないので、諦めたように、明美のすぐ隣にたたずみ、タバコに火をつけた。その距離は1メートルもなかった。彼は、明美に寄り添うように、ただそこに立っていた。
 
 どれくらい、泣いていただろう。
 明美は23時39分から時間のわからない世界にいた。だが、確実に誕生日は終わっただろう。結局スマホはならなかった。
「ありがとう」
 明美は鼻をすすりながら、隣に立つ彼に声をかける。小さくて掠れた声でも、1メートルもない距離に立つ彼には届いた。
「大丈夫っす」
「はー、ちょっとスッキリしたかも」
「それは、よかったっす」
 彼は、なにがあったのか、明美に聞くことはしなかった。
「こいつ、やばい女だって思ったでしょ」
 明美が横に立つ彼を見上げて、真っ赤な目で笑いながら聞く。
「まぁ、そっすね」
「だよねー」
「……ていうか、なんというか」
「……なによ?」
 彼は一瞬、言うかどうか迷うそぶりをみせたが、ふふっと鼻で笑うと口を開いた。
「お姉さん……泣き方、キモイっすね」
「え? 泣き方」
「はい。うえっ、うえっ。って」
 そういうと、彼は明美の泣き声を真似てみせた。
「えへっ。そっか、変だったか」
「はい。変ってか、キモイっす」
 彼は馬鹿にしたように、薄く鼻で笑った。明美は、隣に立つ、彼のふとももあたりを、拳で叩いた。
「いてっ。何すんすか」
「キモいキモい言うな」
「だってキモいんすもん」
 ははは、と明美は声を出して笑った。それから、これありがとね、と靴下を掲げ、改めて彼に礼を伝えた。
「それ暖かいやつっすよ」
 彼は靴下の説明を始める。明美はそれが無性におかしくて、再び笑い出してしまった。何がおかしいんすか? と口を尖らせていた彼も、次第に明美につられるように笑い出した。
 コンビニの明かりに照らされた、風のふく、暗い夜のはずれで、ふたりだけの笑い声が響いていた。


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