人を殺してはいけない理由を考える

「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いに対して、「厳しく禁止しておかないと社会が不安定になるから」という答えはどうだろうか?
他人を殺しても咎められない社会では、「自分は殺されるかもしれない」という可能性がそこそこ起こりえることとして、いつも頭に存在することになる。
「相手の機嫌を損ねたら殺しにかかってくるかもしれない」「外を出歩いていたら気まぐれに殺されるかもしれない」「家で寝ていたら殺しに入ってくるかもしれない」
人々が生活していくうえで、殺されることへの不安、恐怖をより強く感じ、その可能性を常に疑いながらの生活を強いられることになる。
そういう安心できない状況では、人同士がコミュニケーションをとったり協力したりするにあたって、いちいち「殺されるかもしれない、殺されないようにしないといけない」という余計な手間がかかって、非常にコミュニケーションコストが高くなり、効率が悪い。
また、人同士のトラブルがあったとき、「相手を殺してトラブルそのものを帳消しにする」という短絡的な手段がとられる場合が増え、トラブルに向き合ってその構造や解決を模索する機会が減り、トラブル解決の知識が蓄積されにくくなる。
一方で、もし周囲に殺人を禁止した社会があったとすると、殺されるかもしれないというストレスがなく、効率的に社会が運営されて、より発展しているかもしれない。
また、むやみに人が殺されないので、人の数が多いかもしれない。
そうすると、人を殺しても咎められないために、うまく発展できない社会は、殺すことを禁じて発展できた社会に、軍事的にか、経済的にか、文化的にか、侵略されるかもしれない。
「人を殺してはいけない」と禁止しておかないと、社会が弱くなる。

また、「なぜ人を殺してはいけないの?」という質問をあまり口にしてはいけないと感じられてしまうのは、「そんなことを疑問に思うということは、この質問者は、もしかしたら、私やほかの人を殺してもいいと考えているのかもしれない」と不安になるからかもしれない。
そういう不安があると、人間は「つい」その人を集団から排除したくなってしまう。
「人を殺す」というのは、ただ考えただけですら、人間はその人を排除したくなる。
本能的にそう反応してしまうのは、本能レベルで禁止しておいた人々が、禁止が緩かった人々を打ち滅ぼして、こうして現代までいきているから、だったりするのかもしれない。

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