「発達障害」と診断された自分が「理屈っぽい」と言われることについて

発達障害と診断された自分がしばしば言われること。
「すごく理屈っぽいね」という言葉。

それはまったくその通りだと思う。
というのも、自分の感じた通りに話すと相手にまったく通じないから。
逆もしかりで、他の人の感覚を話されても今ひとつピンとこない。
そうなると、もう理屈で話をするしか方法が残っていない。
だから、どうしても他の人と話すときは理屈という手段しか残っていない。

そういう具合に理屈でばかり人と話していると、「この人(=自分)は物事を理屈で捉える人なんだな」と思われている or 言われることをよく経験する。
そんなことはない、と少なくとも自分は思っている。
音楽を聴いて感動のあまり泣き出したり、物語に触れて言葉を失うほどに感動することだってしょっちゅうある。
じゃあそれを伝えれば、自分だって理屈ばかりじゃないんだという事が伝わるだろうと思われるかもしれない。
そういった思いを伝えようとしたことは小さいころから何度もあった。
でもそのたび、相手は怪訝な顔をしていた。
「お前は何を言っているんだ?」というような対応をされた。
それでも必死に伝えようとすると、「もういい、わかったから。しつこい」というような対応をされた。
自分としては、こんなに感動できるものがあるんだ! と他の人とその感動を分かちあいたい、という気持ちで人に勧めるのだけれど、どうにも相手に伝わらない。
いままで、「ほんとだ! これすごいね!」といった反応をしてもらえたことがほぼほぼ無い。

その反対に、周りの人達が「感動した、これすごいよね!」と評価しているものの良さが今ひとつわからないことも多かった。
ただ、こちらに関しては「多分ここがすごいのかな?」という予想を立てて、「ね! すごいよね!」と合わせてはいた。
自分としてはそこまで思い入れだったり情があったりするわけではなかったので、マニュアル的に対応することは出来た。
むなしい気持ちではあったが、それでも人の中で生きていくために必要なことだと割り切って対応していた。

ただし、非常に評判のいい作品の場合、それには多分沢山心に響くポイントがあるのか、「あの作品はすごいよね!」という風に話が通じることはあった。
ただし、具体的にどこが良かったかとかを話し出すと、どうにも感動しているポイントが違っていた。

ここまであげたものは創作物だったので、すこし例としては極端だったのかもしれない。
けれど、普段の生活でも、「快・不快に感じるポイント」や「気になる・気にならないポイント」など、とにかく沢山のことが、どうにも微妙にずれている。
なので、感覚的な話をされると、まずはわからない。
とはいえコミュニケーションのため、相手の選んだキーワードや、これまで勉強した心理学系統の知識、過去に経験した会話・コミュニケーションのパターンなど、とにかく知識・経験を総動員して類推する。
それで、相手の発言内容を「~~ということ?」と自分なりに整理して話す。
あたることもあるし、はずれることもある。
ともあれ、そういうことばかり繰り返していると、「なんか君(=自分)って理屈っぽいよね」という評価を受けることとなる。

自分だって、直感的に「わかるー」「だよねー」「それなー」といった対応ができたらどれだけ楽だろうか。
どれだけ幸せだろうか。
それができないから、なんとか収集できた情報から、必死に考えて理解しようと頑張る。

そして、自分が感じたことをそのまま話すと、「え? なんでその話からそういう話になるの?」といったような反応をされる。
だから、自分の感じたことを伝えるためには、できるだけ客観的な情報だったり、一般的に用いられている尺度だったり、科学的に立証された法則だったりを引き合いに出して説明する必要がある。
その結果、「理屈っぽいね」という評価を受けるようだ。

優しい人が相手だと、自分が理屈で伝えようとしていることを察して、ちゃんと理屈が通った話を返してくれる。
それはとても有り難い。
有り難いし、その優しさも嬉しいが、でもやっぱりどこか悲しくなる。
例えばそれが数人の会話だったとして、自分がそういう理屈でのやりとりをはじめると、それまでは一言二言で軽快に話し合っていた人達が、理屈で話をしてくれる人と自分との長台詞の応酬になって、話さない人がでてくる。
たいてい、しばらく経って、そういう状況になってしまっていることに気付く。
(またやってしまったな)と申し訳ない気持ちになる。
しかし、もしそこで謝ろうものなら、「いや、別に君(=自分)は何も悪いことしてないのになんで謝るの?」という言葉が返ってくる。
自分としては申し訳なく感じているのに、それを謝ることを禁じられてしまう。
実際、倫理とか道徳的には、謝るようなことはしていないのだろう。
けれど、自分としては、それまでの軽快なやりとりで楽しんでいた人達から、そういう雰囲気を奪ってしまった罪悪感を感じているのだ。
なので、罪悪感を抱えたまま、会話を終える。
「楽しかったね!」という雰囲気をできるかぎり出しながら。

一応は、そういう理屈ばかりの雰囲気にならないようにと、漫才・落語・バラエティ番組などを沢山みた。
高校に入ってバイトができるようになったら、真っ先にテレビを買って、自室でずっとそれらの番組をみていた。
ガヤの笑い声に合わせて笑う練習をして、何に対して笑うべきかとかも練習した。
とにかく普通の人になれるようにと、必死に練習した。
そのおかげか、練習を始めて以降は、そこそこコミュニケーションがとれるようになったと、自分では思っている。
ただ、時々笑うポイントを間違えて、いきなり大声で笑ったらまわりに怪訝な顔をされることもあった。
そのぐらいはまあ仕方がないと思っている。
たいていの人は、笑う人には寛容であるようだから。
変なところで笑ってもすぐ流されることが多い、という経験があった。
笑いのつぼという奴は千差万別であるようすだからなのだろうと思っている。

ともあれ、「理屈っぽい」とか「理屈でしか話が通じない」というのは、そもそも、どうやら他の人達とは物事の感じ方が違っていることが原因なのでは無いかな、となんとなく思っている。
「感覚で話ができない」「なんとなくのニュアンスが通じない」と思っているのは、べつに相手方(=一般的な人達)だけでは無くて、こちらだってそうなのだ。
小さいころは感じたままに話そうとしても、どうしても相手が理解を示さなかった。だからできるだけ通じるようにと、でも何が相手に通じるのか今ひとつわからないので、長々と理屈っぽい話を延々としてしまう癖がついたのかな? などと思ったりもする。



専門家でもないので、見当違いの話になるかもしれない。
一応思ったことを書いてみる。
よく、発達障害の子供は自分の気持ちを伝えたり、相手の気持ちをくみ取ることが苦手といわれているらしい。
でもそれって、「そもそも物事の感じ方が違う」ために、言われたことが感覚的に理解出来ないし、感じたことを伝えても理解してもらえないという経験を何度もしたからなんじゃないの? とか思ったりもした。
しろうとのたわごとです。

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