LGBTという概念自身が、型にはめようとしていないか?

「男で無いなら女である」「女で無いなら男である」「どちらでも無いならXジェンダーである」という、ガチッと枠にはめようとする考え自体がなんか違うのでは無いか?

おそらく、男性の遺伝子を持っていると多くみられる傾向がある性質(好み、認知の傾向など)を男性的と人間は感じ、女性の遺伝子を持っていると多くみられる傾向がある性質を女性的と感じるのではないか?

とはいえ、それはあくまで傾向でしかなく、男性が部分的に女性的性質を持つこともあるだろうし、女性が部分的に女性的性質を持つこともあるのではないか?

個人を見たとき、そういう男性的な性質と女性的な性質は混じり合っているのではないか?
ただ、多くの人と社会で触れ合うと、男性に多くみられる性質と、女性に多くみられる性質には偏りがある。

だから精神の事を言うなら、(私は/この人は)こういうときは男性的な性質が見られるが、別のこの時は女性的な性質が見られる、みたいな感じではないだろうか?

「男で無いなら女である」「女で無いなら男である」「どちらでも無いならXジェンダーである」という0か1かみたいに強引に区分けしようとするのがなんか違う気がする。

精神は男性的特徴が多めとか女性的特徴が多めぐらいのものではなかったのだろうか?
そういうぼんやりしたものだから、
「あなたの心は男ですか女ですか?」
「なんとなく女性っぽいところがある気がします」
「じゃああなたの心は女性! きまり!」
みたいな型にはめるのがそもそも違うような気がする。

LGBTを推進する人達の話は、多様性といいながら、タイプ分けして型にはめようとするように見える。
男性にも女性的なところはあるよね、女性にも男性的なところはあるよね、ではだめなのか。
それこそ、精神的な性別は男性的と女性的がグラデーションで混じり合っているのではないか?
それを型にはめようとするのは、いろいろと軋轢が生じる気がする。

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