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いつも君と

 夜の彼方から、君の声が聞こえたような気がして、僕は家を出た。

 歩き慣れた、幼い頃から過ごした街だと思っていたけれど、夜に見せるその姿は昼間に見せるそれとはガラリと違っていた。明るく広がっていた青空は、空が開けているだけ、夜の暗さを近くに感じ、等間隔にポツポツと灯る街灯もどこか頼りなかった。
 自宅からすぐ近くの坂を下って、この辺りではそこそこ大きな公園に入る。公園というよりも小さな山のようになっていて、坂道があって、上の階と下の階とになっている。坂の下には、塗装が剥がれ錆だらけになった遊具が寂しそうに据えられている。坂を上ると、そこには膝丈ほどの草が生い茂った広い空間になっていて、灯りもほとんどなく、夜の闇の中にひっそりと佇んでいる。
 草をかき分け、視界が少し開けたところに置かれているベンチに腰をかけた。真っ暗な中にも遠くの方には光があって、そこに誰かがいることを確かに感じられた。
 ベンチから立ち上がると、再び君の声が聞こえた。僕のことを待つ、ひたすらに寂しそうな声が。
 さっきまで、ただただ漠然と暗いだけだった夜空に、雲がかかり始めて、暗さの中に濃淡ができつつあった。それから程なくして、小さな粒だけれど、しっかりとした雨が降り出した。

 公園を後にして、「閑静な」とまではいかない住宅街に入る。道路の両側には、一軒家やニ、三階建てのアパートがあって、ちらほらと部屋の明かりがついているところもあるけれど、時間が時間なだけに殆どの窓枠は黒く塗りつぶされていた。環状七号線が近く、時折エンジン音が聞こえるものの、僕の耳に入るのはエアコンの室外機がカタカタと震える音と小さな雨が窓を叩く微かな音だけだった。

 少し歩くと、また公園がある。
 こちらの公園の方が、一般的に「公園」と言われてイメージされるものに近いかもしれない。ブランコに鉄棒、それから二つの滑り台が設けられている。一つは、壁が傾斜になっていて、そこが滑り台として遊べるよう舗装されている。その脇には階段もあって、この公園の二つある出入り口の一つ、僕が今入ってきたのとは別の入り口につながっている。もう一つの滑り台は、真ん中あたりにあって、円錐台のプリンのような形をしていて、その斜面が滑り台になっている。
 幼い頃よく足を運んだ公園で、プリンの滑り台を手をつかずにかけあがろうと何度も挑戦していた。大人になった今、滑り台を見上げてみると、幼い頃には果てしないほど高く感じていたのに、それほど高くなくなっていた。
 公園内を見回してみると、以前と少し変わっていることに気づいた。塗装が剥げて錆だらけだった遊具が、綺麗に塗装され直されて綺麗になっていた。
 自分が意識するとせざるとに関わらず、時間は刻一刻と進んでいて、その時間の中で自分以外の誰かも活動をしている。自分の中の時計は止まったと思っていても、針を止めていたのは自分自身だったのかもしれない。

 入ってきたのとは違う出入り口に向かっていると、ベンチの前でふと足が止まった。雨に濡れるベンチの傍に、君が見えた気がした。礼儀正しくきちんと座り、こちらを見上げている君が。

 公園を出ようと出入り口に向かっていると三度声が聞こえたように思えた。雄々しくもありながら、何かに対して怒りをぶつけているような声だった。
 ベンチの方を振り返っても君の姿は見えなかった。

 公園を出ると雨脚が強まり、雲もより一層厚く、そして黒くなった。雲に目を凝らすと、青白く光る部分があり、時間を少し空けて、けたたましい音を立てている。

 そういえば、君は雷が苦手だった。
 人間が雷を察知する少し前から、君の呼吸は荒くなった。舌をだらりと出し、お腹を膨らませてはへこませてを繰り返して大きく、そして速く呼吸していた。それから大きく丸く目を見開いて、落ち着きをなくし、誰に対してということではなく、ただただ溢れる恐怖に従って、鳴き声をあげていた。床だったり壁だったりにものすごい勢いで爪を立て、時には爪の先から血が出てしまうこともあった。
 インターネットで調べてみると、防衛本能の一つだそうで、こういう時に甘やかすようなことをしてはいけないとあったのだけれど、こちらとしては、普段見せない気の狂ったかのように怯える姿を前にしては、少しでも落ち着かせようとせずにはいられなかった。
 僕の股の間に顔を埋めさせるようにして、ただひたすらに頭やお腹を撫でてやった。少し落ち着いたかのように思っても、また雷が近づくと落ち着きをなくし、というのを何度か繰り返し、人間からすれば雷が去ったと思ってもまだ怯えていて、しばらくしてからやっと落ち着いて、気持ちよさそうに眠っているなんてことがしばしばあった。

 少し歩いて、環状七号線に出る。角にあったはずのとんかつ屋は、いつのまにか潰れてしまっていて、小さなアパートができていた。
 店の前で用を足している時に、タイミング悪くとんかつ屋の店主が出てきてしまい、逃げるように立ち去ったことがあった。
 さらに少し歩くと、コンビニがある。
 闇夜の中でも煌々と光る人工の灯りがやけに眩しく感じられた。ずぶ濡れのままコンビニに入った。最後に来た時から商品の陳列場所が変わっていて、目当てのものを探すのに少し戸惑った。レジにいた店員は、ずぶ濡れの僕を見て、一瞬ギョッとしていたけれど、すぐに元の眠そうな表情に戻り、事務的にバーコードをスキャンした。

 ミルク味の飴。君が好きだった飴。
 個包装から掌に取り出して、口元に差し出すと美味しそうにガリガリと噛み砕いて食べていた。
 コンビニを出て、いつもリードを結んでいたガードレールに近づいて、しゃがんだ。ミルク飴を掌に出して、差し出すけれど、飴玉がただ雨に濡れるだけだった。僕はそれを口に含んだ。とてもとても甘かった。思っていた以上に甘くて、口の中には、これでもかというほどミルクのまろやかな香りが広がった。
 飴を転がしながら歩いていると僕の数歩前を君が歩いている気がした。君はよく、たかたかと軽やかに数歩歩いては、「ちゃんと付いてきてるか?」と確かめるかのように、足を止めてこちらを振り返ってくれていた。

 それからしばらく、当てもなく歩いた。
 君と歩いた道を。
 どこかに君がいるんじゃないかと、時折足を止めながらも、黙々と足を進めた。
 いつしか雷はすっかり遠くなっていて、雨も止んでいた。

 家へと続く坂道を上る頃には、夜が明け、太陽が昇り始めていた。空には青い絵の具を少し水に溶かしたようなうっすらとした青色で、うっすらとした月が浮かんでいる。
 朝陽に照らされ、息を切らしながら坂を上る僕の横には、同じく息を切らしながら歩く君がいるような気がした。

 家の前の通り。春になると桜が見事に咲き誇る。
 散歩の最後にはこの道をよく、全速力で走った。
 僕が走りだすと、君も走りだす。僕のことなんか、君はあっという間に抜き去ってしまう。
 僕が息も切れ切れ辿り着いた時には、君は家の前に佇んでいて、こちらを振り返って、誇らしげな顔をして、それから、「楽しかったな」と嬉しそうにしていた。

 ひとりぼっちで、玄関の扉に手を伸ばした。
 その時ふと、暖かな風が吹いた。
 風の中から僕を呼ぶ声が聞こえたような気がして、振り返ってみた。すると、散って久しい並木の桜が満開で、はらはらと軽やかに、朝陽に照らされながら花びらが舞っていた。その中に、折目正しくお座りをした君が、確かにいて、僕の方を見つめていた。
 そして、凛とした声で
「ワン」
と吠えた。

 君は、いつもここにいる。

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