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俺はゴディバは食えない

タイトルの通り。
柔術のジムには会員さんのお土産でよく菓子が並ぶ。チョコレートは定番だ。俺はチョコレートは好きだし、高いチョコレートなんて、とてもテンションが上がるのだが、ゴディバは食えない。

それは俺の「道」の一環なのだ。

本来、人生は何をしても良いので、もちろん、ゴディバを食べても良い。

だが、全てが可能であるということは、極端に言えば、全てが無価値であることにも向かう。

仮に、永遠に生き、能力が際限なく伸ばせるとする(実際はそうではないが、仮に、そうだとする)。すると理論上、本当に何でもできる。数年使って最難関の資格を取ってみても良いし、飽きたらオリンピックに出てみても良い。しかし、それもいずれ飽きてしまう。

その気になれば何でもできることは、してしまう前にもはやそれが終わっているのと同じことだ。
公園で子供を見た。ジャングルジムのどれだけ上からとべるか、心から楽しそうに実験していた。彼らは、自分の可能性の予測がまだ定まらないから楽しめるのであって、大人になれば、公園の遊具から得る刺激の大抵は予測可能になってしまい、楽しみを失ってしまう。

また、成長の中で、全ての価値は相対化され、均質になってゆく。
人生において素晴らしいのはこれこれで、ここに価値があるのだ、と親や教師に教わり、それを信じて人生が開始される。だがいつか「舐達麻とかもかっこいいな」と、教わった価値の真逆にいる人間にも価値があることに気付きだす。さらに色々な人を見るにつけ、他に多くの価値があることに気付いてくる。そこで、自分の信じてきた価値はそのひとつに過ぎず、唯一絶対のものではなかったのだ、ということに気付く。

舐達麻(同郷のラッパー)

だが、「道」に生きる場合はここで終われない。道は、諸価値が万人にとって絶対のものではないと認識した上で、それでも自分にとってはこれが絶対なのだ、と選び取ることだ。何でも出来、全てが同価値な自由の下、「自らの意思で」、もう一度自分を束縛し、不自由にしてゆくことだ。

何でもできると思って足踏みをしていると、上でおいた仮定とは異なり有限である人生は、どんどん過ぎてしまう。日曜日の朝、今日は天気も良いし、家事でも買い物でも何でもできると思いつつ、どれにするか決めかねダラダラし始めると、すぐに夜になってしまうように。
そこで、俺はこれや、と決める。今日は映画を見に行くんだ、と決める。本来は部屋を片付けてもクレープを食いに行っても映画でも良かったが、今日は映画、と決めてしまう。それは全てが手元にある自由な状態から、映画だけにしぼられた不自由な状態に自らとびこむ行為だが、そうすることで、日曜日は充実しだす。

「道」は、自らの意志で、自らの「道」の先のある地点に向け、自らを不自由にしてゆくことで、むしろ充実を得ることだ。

だから、俺はゴディバを食えない。
俺の「道」の先の地点では、ゴディバは食われていないからだ。ゴディバを食ったら、俺は自分の道を曲げることになってしまう。

ハンターハンターのクラピカが、幻影旅団にしか使えない、これを破れば死ぬ、という厳しい条件をつけた能力によって格上のウヴォーギンを圧倒していたように、自ら課した制約や誓約は俺に力をくれる。

ゴディバを食わないことで鎖の能力を強化し、格上の幻影旅団員を追い詰めるクラピカ


できることをしない、そこに道がある。

俺はゴディバは食えない、食ったら死ぬ。

そう決めることによって、俺はクラピカなのだ。



補足
・コンビニのゴディバコラボ商品とかもダメ
・知らぬ間に食べていた場合(パッケージを見ず、人から手渡された等)はノーカン
・もっと重要なことと天秤にかけられた場合(ゴディバを食うか一万円没収か、など)は、普通に食う。



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