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『長い一日』を読む長い一月 〜10日目〜

滝口悠生さんの連載小説『長い一日』(講談社刊)を一日一章ずつ読み、考えたことや想起されたこと、心が動いたことを書いていく試みです。

『長い一日』は、わかりやすく何か出来事が起きて、それを追って物語が進んでいくというわけではなく、登場人物の思考や記憶や想像によって小説が形作られています。お花見の様子や、引っ越しにまつわるアレコレはたしかに描かれていますが、いわゆるストーリーと呼ぶには、出来事自体はあまりにも些細なことです。読み手にとって大切なのはそこから派生していくものを注意深く観察していくことだと思います。

自由研究の定番である、アサガオの観察に例えて言うなら、花を見るのではなく、葉っぱや蔓の伸び方、そして、根の張り方に目をこらす。そんなことを考えながら読み進めていますが、こじつけがすぎるでしょうか。

第10回は、「瞬間の庭」です。

あらすじ
夫は大家のおじさんにいよいよ引っ越し先が決まりそうなことを告げる。夫はそのときのことを、自分たちの人生を左右し、何度も振り返ることになる瞬間になるだろうと思っている。表情が大きく変わらないおじさんの、その感情の揺れ動きを夫婦は見分けられるようになった。
妻は大家夫婦のことを「おじちゃん、おばちゃん」と呼び、夫は「おじさん、おばさん」と呼ぶ。妻が「おじさん」と呼ぶ時には、夫の声が重なるように感じる。
おじちゃんとおばちゃんの様子が、駅まで歩く妻によって想像される。夫は自分たちの決定が、ふたりの間でどう語られるかのを聞くために二階の床に耳をつけている。おじちゃんとおばちゃんの間には長い時間があるが、かつておじちゃんの仕事場だった庭にあった膨大な時間は「不在」として認識されるのみである。

ふたつの文
この章は何度も何度も読み直して、いろんなことを考えたのですがうまくまとまりませんでした。なかでも気になっている、というか引っかかったのが最後の段落です。

夫は床に耳をつけ、妻は駅に向かって歩いている。妻はその時、まだ夫がおじさんにいよいよ引っ越しが決まったと告げたことなど知らない。歩きながらそのことを想像している妻は、もっとずっとあとから、引っ越しも済み、その家を離れてずいぶん経った頃から、その特別な瞬間をまるでその時想像したみたいに思われている。駅に向かって歩いている。(p.110)

夫がおじさんに引っ越しが決まったことを告げ、おじさんとおばさんがそのことについて会話をかわす、といったことを、妻はここまでに想像してきたわけですが、本来この時点では、そもそも夫が引っ越しを告げたことを知らず、こんな想像をする余地はありませんでした。とくに最後から2行目の部分に引っかかったのですが、今書いたことを考えると、ここで想像している妻は、あくまで事後的に想像されたのであって、現実とは異なっている。想像っていっぱい出てきすぎて、自分でもなにがなんだかわからなくなっております。
繰り返しになりますが、「そのことを想像している妻」は「ずいぶん経った頃(の妻)」によって事後的につくられたものであって、現に存在していなかったと捉えられるのでしょうが、はたして本当にそれでいいのでしょうか。その日駅に向かって歩きながら、夫とおじさんとの会話、また、おじさんとおばさんとの会話を思い浮かべていたという妻の記憶が、こうしてたしかな手応えを持って語られることに意味があるのではないか、そうやって想像していた妻は「いた」のではないか、そんなことを考えました。

この章はグッとくる箇所がたくさんあったのに、自分の思考が追いつかず文章にすることができなかったことに歯噛みしています。代わりに、この章からいくつかの箇所を引用して終わりたいと思います。読んでいるかたに響くものがあれば嬉しいです。

たくさんの瞬間とたくさんの季節が庭に、そして庭からおじちゃんに流れ込む。その膨大な時間はしかし、おじちゃんの何もさらっていかず、次の瞬間にはその不在ばかりが、背中の後ろの、静かな窓の向こうだった。(p.109-110)
夫は一階の大家さん夫婦を、おじさんおばさんと呼んだ。妻は、おじちゃんおばちゃんと呼んだ。しかし妻は、自分がその場にいない夫とおじちゃんのやりとりを想像すれば、その呼び方は夫を通して、おじさん、と呼ぶ。おじさん、と呼べば、自分の声ではあるけれど、そこに夫の声が重なる。おじちゃん、と呼べば妻の声になる。(p.105)

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