見出し画像

演劇の定義

僕は演劇の定義を「ライブ感があること」と定義づけていた。
演者・観劇者、どちら側も体感してきた身としては、相互に作用し合うことが「ライブ感があること」としている。

例えば、サッカーや野球などスポーツはテレビでも観戦できるが、実際にスタジアムに行って空気を共にする一体感やほとんどテレビには映らないお客さんの一喜一憂、それを受けてしまう自分、実際目の前にいるプレイヤーへのエール、エールを受け踏ん張る時間、お客さんへのパフォーマンス、来場への感謝の気持ち。

演劇も舞台上に立ちながらお客さんの温度感や集中力の高さが伝わってくる。
観劇者として観に行っても、俳優の集中力・その世界での存在の密度が感じられる。

お客さんの咳込み、足の組み替えの頻度、椅子の座り方・位置の調整、笑うタイミングと量、鼻を啜る音、息の吐き方──
俳優の緊張度、真剣味、世界への入り込み、全身の動き・立ち方、声のボリューム、細かい声色、息遣い、セリフを噛んだ時の表情や稽古とは違う相手役の動きへの対応の仕方──

お互いにそれを知覚していつの間にか影響し合ったり、あえて無視したり。
あえて、の時点で近くしているのだけど。

とにかくどうにもこうにも、同じ時間・空間を共有しているからこそ、どうしても五感の共有・相互作用が生まれる。それが演劇=「ライブ感があること」だと。

ただ、その定義は本当か?
演劇や舞台が映像化(舞台で公演したものをそのまま映像記録として残している)した場合も、「映画」とは呼ばず、「演劇」のカテゴリーでサブスク等では分けられてるし、映像化されたのを観ても「映画観たわ〜」ていう感覚にはならない。
「演劇」を観た、「演劇」の映像を観た。となる。別に「映画」を観てない。

…と、感想が出た時、じゃあ、「演劇」とは?となる。
前述の「ライブ感があること」を演劇と定義づけた場合、この映像の「演劇」は演劇で無くなる。
でも「演劇」だ。いや、もはや演劇ではないのか?

演劇の定義付けを新しくしてみた。
「始まってから終わるまで鑑賞者の意のままに操作できないこと」

うーん、じゃあ映画館で観る映画は演劇ってことになる。

演劇って考えるだけで味わい深イイ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?