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日本の男尊女卑についての考察㊱(古事記⑦神武即位までの道のり①)

いつも読んでいただけて
とても感謝しております。

今回は神武天皇即位までの
経緯を順を追ってお話をさせて
頂きたいと思います。

まず、神武天皇の
生い立ちから
神武天皇に即位するまでは
神倭伊波礼毘古カムヤマトイワレビコ
若御毛沼ワカミケヌ豊御毛沼トヨミケヌ
などと古事記には表されますが
この回ではイワレビで
統一させて頂きます。

イワレビは
天孫ニニギを曽祖父とし、
山幸彦(ホヲリ)を祖父とし、
鵜萱葺不合ウガヤフキアエズを父とします。
この3代を日向三代ヒムカさんだい
呼ばれ特に尊崇を集めます。

フキアエズの四子として誕生します。
長兄に五瀬彦イツセヒコ、次兄に稲氷イナイ
、三兄に御毛沼ミケヌが、いました。

イワレビが15歳の頃
太子として選ばれ、
日向国(宮崎)の
阿比良比売アヒラヒメと結婚し
多芸志美美タギシミミを儲けました。

そして、
イワレビが45歳の時
兄達や臣従達に
海を渡って東の方に
領土を拡大しようと
提案しました。

すると祖父ホヲリが
「大和国(奈良)には、
天磐船アマノイワフネに乗り
天降ってきた邇藝速日ニギハヤヒ
いう者が王になっていると聞く
都にこそふさわしい地である。」
と皆に伝えました。

皆が賛同し
四兄弟と臣従達は
大和国を目指し東征を
開始しました。

一行は最初に船に乗り
宇佐うさ(大分)を経由し
筑前ちくぜん国(福岡)のおが宮に
一年逗留し 次に、
安芸あき国(広島)の多祁理たきり宮に
七年逗留し さらに
吉備きび国(岡山)の高島たかしま宮に
八年逗留しました。

浪速なみはや国のわたり(大阪湾)を過ぎ
白肩しらかたの津
(大阪府枚方の語源と
いう説もあります。)
より上陸を果たします。

一行は、白肩の津に
全軍を泊まらせました。

すると大和国鳥見とみの土豪、
(登美とも書かれます。
奈良市登美ヶ丘?)
那賀須泥毘古ナガスネヒコ
(登美毘古とも記されます。)
率いる軍勢が
長兄イツセ率いる軍団に
襲いかかりました。

イツセはナガスネヒコの
放つ矢に射抜かれ
深い傷を負ってしまいます。

イツセはこの一連の出来事を
「我らは、日の神子であるのに
日に向かって戦いを
挑んだことが
この失態につながった。
次こそは、必ず日を
背負い戦うべきだ。」
と分析し、
皆に提案しました。

一行は、敵の東側に
向かうため南に迂回し
体勢を立て直し
これからという時でしたが
紀伊きい国の水門みなと
到着した頃、
矢傷を悪化させた
長兄イツセの命は
尽きようとしていました。

「卑しき敵ナガスネの
放つ矢によって
我が命は潰えるのか!!」
と叫び、イツセはそのまま
息を引き取りました。

これより、東征軍は
イワレビに全てが託されます。

今回のお話はここまでです。
次回は
古事記⑦神武即位までの
道のり②に
させていただこうと思います。

ここまで読んでいただけて
とても嬉しく思います。

次回もお楽しみください。

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