日本の男尊女卑についての考察㊳(古事記⑦神武即位までの道のり③考察)
今回もよろしくお願いします。
いよいよ古事記 上つ巻の集大成
神武天皇が即位したという話は
前回にいたしました。
今回はイワレビが生まれて
神武天皇にまでに至った経緯
についての考察をさせて
頂きます。
イワレビは
長兄イツセ
次兄イナイ
三兄ミケヌ
三人の兄を持つ末子として
生まれました。
15歳の頃
立太子として兄達を
差し置いてしまってます。
その理由として
とても聡明で目立っていた
とされていますね。
何故このような表現になり
古事記に表されているか?
それは古事記・日本書紀の
編纂を命じた
第40代天武天皇が
末子に該当してるから
だと言えますね。
天武天皇はかなりの
紆余曲折を
経て天皇に即位しています。
兄がとても偉大すぎたと
いうのも理由にあるのかも
しれません。
天武天皇の兄は
乙巳の変の立役者
天智天皇となる前は
中大兄皇子という名前
の方が有名かもしれないですね。
天智天皇の嫌疑を避け
吉野にて出家をします。
その天智天皇崩御の後
吉野で挙兵します。
壬申の乱ですね。
そして
甥にあたる
第39代弘文天皇を
降し、大海人皇子が
天武天皇として即位しました。
まあ天武天皇が
古事記・日本書紀を
編纂を命じはしましたが、
完成は天武天皇の御世では
なく天武天皇崩御に伴い
古事記編纂は
中断されてしまいます。
29年後に
編纂を再開されて
4ヶ月後に
古事記全3巻は
第43代元明天皇に
献上されています。
この時に参考にされた
資料は帝紀と旧辞と
言われるもので
どちらも現存はしません。
その資料を稗田阿礼が
口述で伝え大安麻呂が
編纂しています。
ちなみに
日本書紀の編纂は
40年の歳月を要し
さらに多くの編纂者を
必要とし、ようやく
全30巻と系図1巻を
第44代元正天皇に
献上されました。
なぜ二つの異なる史書の
編纂を必要としたのか?
当時の国内外の情勢が
大きく関係していると
言われていますね。
当時、最も力のあった国
西暦680年代ですから
唐だと言えます。
その唐から見て
文化的に発展している国
と示す必要があったから
だと言えます。
唐から発展途上と、あるいは
未発達の国と見做されれば
侵略吸収の憂き目に遭ってしまう
可能性が非常に高い時代でした。
だからこそ
早急に自国の歴史や文化を
国内外に知らしめる理由が
あったと言われています。
まあ天皇という名称も
最初から存在してたわけでは
ありません。
古くは王や大王と
呼ばれていたはず
その名称ですら
古代においても海外からの
影響は受けていると思います。
感覚的に申せば
いくつかの部族の長を
束ねて王とし
いくつかの王を
束ねられる力があれば
大王と称した。
その大王を受け継いで
大王家となり、
天皇家の前身となった。
という感じになると思います。
ではいつ頃『天皇』となったか?
歴史上、天皇と明記したと
言われているのは
第40代天武天皇ですかね。
天皇という言葉は
日本独自のものではなく
唐時代の女帝
則天武后が
唯一、天皇と称しています。
しかし唐から見て格下である
島国 日本の尊称を冠することを
唐は避けたかったので
自然淘汰されてしまいました。
古事記や日本書紀を通じて
古来から天皇と称していた。
という既成事実を
作ってしまいたかった。
というのが
本音ではないでしょうか?
もっと踏み込んで申せば
神武天皇が即位する時代は
西暦で申せば
紀元前660年頃と
言われているので
その頃の日本は
縄文時代ですから
そのくらい古い時から
歴史を紡いできた。
と言わなければならない
理由があったと
するのが自然では
ないかと思われます。
ちなみに日本という
国名がはっきりと
使われている時期も
同じく天武天皇の
御世からです。
日本書紀において
神武東征の物語は
イワレビ自身の
エピソードの中でも
最も長く描かれ
それは古事記とも
符合しています。
つまり、大和王朝樹立
しなければ
後の天皇の正当性を
説くことが出来なかった。
何故ならば、
天武天皇が即位を
したのが大和国で
自身の父母兄弟も
大和国に宮を築いたから
という実例を軸に
辻褄を合わせているから
と言えるでしょう。
ちなみに
甥である弘文天皇の
宮は近江国(滋賀)に
あったそうです。
この天皇は
長らく天皇として
認められて
いませんでした。
即位をしたと明記
されたのは平安時代に
なってからですし
江戸時代にも
即位をしたとする説は
有力視されましたが、
正式に皇統譜に
記載できたのは
明治3年です。
話を大筋に戻します。
イワレビは
東征を計画する前から
皇太子として扱われていた。
そして、皇太子として
妃や息子が既にいた。
東征を計画し
実行してから
16年経過して
ようやく大和国を
平定できた。
大和国橿原で
即位を果たし
政略結婚をして
国津神と天津神の
関係を正式に改善し
特別な存在として
神格化できた。
というのが
古事記 上つ巻の
概要となりますね。
この頃から既に女性を
政治の道具として扱う
習慣があったんでしょうか?
それを女性としての役割と
割り切れていたんでしょうか?
今回はこの辺りで
終わろうと思います。
次回は、古事記を少し離れ
天皇家に着目して
話を進めたいと思います。
ここまで読んでいただいて
とても嬉しく思います。
次回もお楽しみに!