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ヨルシカ


ずっと強烈な違和感があった。
それはたとえば、前髪の透けた軽音楽部のあの子らが、太い腿肉を堂々と晒して笑えるあの子らが、教室の真ん中で「爆弾魔」を大合唱してたこと。それはたとえば、「思想犯」が平日の昼間の駅前やスーパーで堂々と流れ、平和そうに生きるカップルやら家族連れやらの生活のBGMになっていたこと。それはたとえば、クラス会とは名ばかりの数合わせの合コンみたいな空気のカラオケで「準透明少年」が入れられて、クラスの男子が手拍子しながら歌っていたこと。

「爆弾魔」、そこにあるのは破壊だ。それも単純な破壊願望じゃなく、消えた「君だけを覚えていたい」のにできない苛立ち、進んでいく時間への拒絶、それなら「君を消せるだけでいい」、いや嘘だ、それはわかっている、だからこそ本当にすべてを消してしまいたい。自壊していく。
「思想犯」、彼は「罵倒も失望も嫌悪も僕への興味だと思うから 他人を傷付ける詩を書いてる」。根底にあるのはどうしようもない孤独だ。本当にほしいのは孤独を癒す承認で、そんな形の興味じゃない。呪いは愛の裏返しだ。わかるだろ、わかるのに。受け入れなければならない。詩にするのだ。「この孤独も今音に変わる」、その時がくる。
「準透明少年」、透過するとは傷つくことだ。「どんな伝えたい言葉も目に見えないなら透明なんだ そんなものはないのと同じだ」。だからこのままの「僕」もそうだ、半分透明みたいなものだ。ないのとおなじだ。それでも、届けたい言葉が確かにある。叫びだす、その声は命懸けだ、透過、透過、透過して。心ごと曝け出してもっと透明になって剥き身で渡す。わたしはここにいる。傷付いたって歌い続けるしかない。見えなくても声だけは聞こえるはずだから。「歌だけがきっとまだ僕を映す手段」だから。

以上は私の解釈に過ぎないけれど、どれも胸の奥の鋭い叫びを乗せた曲に聴こえる。歌ですべて伝えようという強い覚悟が見える。それなのに人々は平気でこれらをBGMにする。間抜けな声で歌う。我が物顔で聞いてるくせに、なんにも届いていないのだろうか。そこまで気にして聴いている私がおかしいのだろうか、そう思っていた。


だから嬉しかった。「盗作」がリリースした瞬間、やはりこの人達は"伝わらなさ"と戦っているんじゃないか、と思った。

「彼奴も馬鹿だ。こいつも馬鹿だ。褒めちぎる奴等は皆馬鹿だ。群がる烏合の衆、本当の価値なんてわからずに。」

ああ私だけは気付いてましたよ、とさえ思った。歌に込められた叫びが聞こえていないあの子らみんなみーんな馬鹿だと、彼らと私だけが気付いてると、そう思った。
「花に亡霊」についてn-bunaからのコメントが出た時なんて泣いて喜んだ。

「ただ綺麗な言葉と景色を並べただけの歌を書こうと思いました。この曲で何を伝えたかっただとか、表現したかったかとか、そういうのは何も無いです。受け取り方は任せます。」

彼は怒っているんだ、どうせ伝わらないと思っているから解釈を拒絶するんだ。こんなの絶対わたしたちへの挑戦状だ、と思った。


それから約一年が経った。ヨルシカは変わった。
「花に亡霊」のコメントについてはn-bunaが自身でも尖っていると思っていた、と告白したらしい。それは彼のバランス感覚の良さに由来する発言かもしれないけれど、それでも本気で怒っている人間はそんなことは言わないだろう、許すことにしたのだろうか。
『創作』のアルバムで新たに公開された曲も、やはり少しテイストが違う気がする。「声はもうとっくに忘れた」「言葉如きが語れるものか」「貴方さえこれはきっとわからないんだ」「他人の痛みが他人にわかるかよ」。そこには、言葉にして歌にして痛みを伝えることへの諦めが見える。でもこれはなんだかただの悲観ではない。良い方向へ進むための諦念だという気がする。「貴方しか 貴方の傷はわからないんだ」、「貴方の歌だけが聞こえる」。それは"わかってほしい"から"わかりたい"への変化かもしれない。伝わらなさを前提として超えていく、いつの間にか主体は歌い手でなく聞き手にまわっている。たぶんそれってやさしい愛だ。

私自身も多少変わった。今でもあの時のように思うところはある、だからこんな文章を書いているしツイートもする。けれど最近のヨルシカの曲を聴いて、もう前ほど強い憤りを感じたりはしなくなった自分がいた。高校を卒業し地元を出たこともある。もう短いスカートをヒラヒラさせて歌うクラスのあの子らも、「思想犯」を流してたあの平和な駅前の巨大スクリーンも、すっかり遠い存在となった。前よりも少し距離を置いて聞けるようになったからかもしれない、たしかにヨルシカは変わった、けれどもそれを自然に受け入れている自分がいた。次のステージに上がっていく彼らを遠くで見守っていこうと思った。



そんな頃だった。縁があり、一昨日、大阪で行われたヨルシカのライブに行くことが出来た。私は今までヨルシカのライブは全て外れてて行ったことがないのでどんなものなのか全く想像がつかなかった。それにファンクラブにももう入っておらず、「又三郎」など最近の楽曲はあまり聞かなくなった、だから本当に行っていいのだろうかという気持ちだった。けれど、今は行ってよかったと心から思う。

(ここからは演出などのネタバレも含むので、これから先の公演に行く予定のある人や純粋に考察だけ読みたい人は次の🌙の向こうまで飛ばしてください。)

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ライブはn-bunaが舞台に登壇し、ピアノの前のイスに腰掛け、物語を朗読をするところから始まる。彼は観客側には背を向けており、全身黒の衣装に黒いハットを被っていた。 
ライブの構成としては、ひとつ大きな物語が朗読されていき、その物語の一場面が終わる毎に三曲ほど続けて演奏をして、また物語に戻って…というものだった。その間背面のスクリーンにはその曲ごとのPVのような映像や物語に合わせた美しい景色の写真が流れる。この点に関しては質問を受けたが、舞台上にはスモークが焚かれており、照明は薄暗かったり観客側に向いて逆光になっていたりで、メンバーの顔はあまり見えないようになっている。MCなどもなくバンドメンバーは基本出ずっぱり、特にn-bunaは朗読とギター演奏を交互にやっていたので1時間半の公演中ずっと舞台に立っていたことになる。
それでも彼は身体中を使い演奏を続けた。印象的だったのは「盗作」だった。曲中、前述した「彼奴も馬鹿だ…」の部分で俯いて微動だにしなくなった。「群がる烏合の衆、本当の価値なんてわからずに。まぁ、それは僕も同じか」。その一瞬、照明が切り替わる。口元が笑っていることだけわかった。次の瞬間には彼はもう狂ったようにギターを弾いていた。被っていたハットを落とすほど激しく、ちゃんとそこに生きてギターを弾いていた。すごくよかった。

以下に覚えている限りの物語の内容も書き記しておこうと思う。

物語はある男のみた夢の話であった。
彼の視界には夏の停留所。背景には緑が眩しく燃える山、空には入道雲、そして頭上には大きく咲いた百日紅の花。(それらは小さな爆弾のようだ)。そのベンチに女の子が座り、上を見ている。どこまでも青い空か、いや違う、その花を見ている。男はその姿に強烈な既視感をおぼえる。ああこれは二人が故郷で共にすごしていた頃の夢だ。
二人は暫くそこでバスを待ち、来たバスに乗って、駅まで行って、そこでまた電車を待つ。山の先の隣町でやる花火大会に行こうとしているのだ。だけどいつまで経っても電車は来ない。通りすがりの人によると、下りで事故があったらしい。二人は歩いて山を超えることとする。
山越えの途中、野原で寝転び休憩をとる二人。夏草は波のようで、気が付くと二人は海の底で揺蕩うように、うちとけて一輪草の中にいた。男は気付かれないようそっとその一輪草をとって彼女の髪につける。彼女はそこで昔出会った幽霊の話を始める。
曰く、ある日幼い頃の彼女が先程の停留所に向かうと幽霊がそこにた。二人は毎日そこで会い、様々な話をするようになった。幽霊は生まれ変わりを信じ、想い人を探していた。もし一目でも彼女に出会うことができるなら。そう言っていた。その幽霊はどうなったのか、男が尋ねると、言いにくそうに、ある日消えてしまったんだと彼女は言った。彼は、なにかが胸の奥を噛んだような心地がした。
隣町に着くと祭りが始まっていた。二人は手を繋ぎ、雑踏を抜ける。人の少ない道を選んで、祭囃子も届かなくなった頃、ふいに空に赤い大輪が咲く。彼女の頭の後ろで咲き誇るそれを見て、男はそれがひどく百日紅の花に似ていることに気付く。
帰りの電車はもう通じていて、二人は並んで座ることができた。程なくして、手を繋いだまま眠り始める彼女。その髪にはまだ一輪草が刺さったままだ。この草はいつまで彼女の髪に刺さっているのだろう。今晩家に帰っても気付かなかったら?明日も、明後日も、もしかしたら大人になってまた二人で遊ぶ日までこの花はついているだろうか。そんな事を思いながら男はただ彼女の事だけをみている。ずっと見ている。その姿に焦点が当たり、それ以外の世界はもう完全にぼやけてしまっている。ずっと。
二人は元の停留所へ戻ってくる。百日紅の花の隙間を月光が刺す。この夢の続きを男は知っている。きっとそうだった。なぜだか彼は、その子の幽霊の話だとか前世の話だとかを疑おうともしなかった。何故こんなにも信じてしまうのか。あの既視感はなんなのか。都合のいい話かもしれない、だけど思うのだ。「私の前世がその幽霊で、生まれ変わって貴方に会いに来たのだとしたら」。視界が白んでいく。

そんな話だった。

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前述でも取り上げた「爆弾魔」にも百日紅の花は登場する。「もっと笑えばよかったずっと戻りたかった青春の全部に散れば咲け 散れば咲けよ百日紅」。百日紅とはそこに残る後悔の色だ。喪失したものへの、それは追慕の色だ。
n-bunaの曲には「失った君」というオブジェが頻出している。「消えない君を描いた 僕にもっと」(「ウミユリ海底譚」)、「近づいて思い出しても 無くしてしまえば今更なのに 君の笑う顔を描いて」(「アイラ」)など、ヨルシカ以前からそうであったし、「言って。」や「ヒッチコック」などの楽曲もそうだ。もういない、失くしてしまった、それなのに心に残って消えない「君」がずっといる。「想い出しかない」そんな負け犬の僕は、あの夏のバス停で、青空を見上げながら待っている。それは暗喩だ。待っている、誰を、君を。想い出の中で笑うだけの、いつまでも戻って来ない君を待ってる。百日紅の花が背面に咲いているようだ。

他者を言葉で切り取る、その瞬間彼らは想い出となる。魂は記憶の寄せ集めだ。想い出を継ぎ接ぎしてできている、それは傍から見たら塵芥に過ぎない、ちっぽけな価値しかもたないものだ。他者の人生という物語を勝手に取り込んで織り成した物語は、もはや盗作と言ってもいい。空虚だ。魂なんて空虚で盗作にすぎない。
或いは、他者を言葉で切り取る、その瞬間彼らは亡霊となる。想い出とは過去であり、過去とはもう死んだ時間のことなのだから、その中の住人は亡霊に過ぎないだろう。自分勝手な喪失の痛みの中で描き殴る君は、いつのまにか元の輪郭を失い、僕の手により婉曲されて、空っぽな物語となる。他者を物語化することは即ち殺すことである。

けれど、もし生まれ変わりを信じるならば。
人間は死によってのみ生まれ変わることが可能になるなら。僕が君を僕の手でまた殺す時、同時に君に二度目の生を与えられるなら。その殺しには意味がある。そのためにできることなんて、言葉にすること描くこと、表現することだけではないか。そこには当然エゴが含まれるだろう。生まれ変わった君は元の形ではないかもしれない。けれどそれしかない。決定的な決別を前にして、それでも尚もう一度君と出会おうとするのなら、そうやって生まれ変わりを与えることしか、僕にはできない。

空虚な魂を受け入れるには、どれほどの時間がかかるだろう。けれど、たとえば百日紅の花が咲く停留所で、夜空に咲く大輪の下で、いつまでもその時を待つ。信じることだ。喪失の痛みが、筆をとるほどまでに癒える時を、行き過ぎた崇拝ではなく、できるだけ本物に近い君に焦点を合わせ、まっすぐ描けるようになる時を。そしていつか、きっといつか、夜しか見れない夢の中で、僕は二度目の生を知る。



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