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第三講 鉄鉱石を巡る「鞘当て」が続く豪中関係

地理講師&コラムニスト
宮路秀作

江戸時代、武士が道を歩く際には様々な不文律が存在していました。その中でも有名なのは、武士が左側通行を守るというものです。これは、お互いの刀の鞘(さや)が当たらないようにするための工夫でした。「武士」という存在は「己の誇り」を最重要視していましたから、ひとたび鞘同士が当たってしまうと、喧嘩どころか斬り合いになってしまう危険性があったのです。

また、武士たちは曲がり角で敵の襲撃を受けてもすぐに対処できる距離を保つために道の中程を歩き、体力の消耗を極力減らすために歩くときは両手を横に置き、「なんば歩き」を編み出すなど、様々な工夫をしていました。現代人から見れば滑稽に見えることも、当時を生きる人々にとっては、何かの条件に最適化したものだったのです。現代の価値観で過去を評価することには限界があります。

しかし、いつの時代にもならず者は存在します。わざと「鞘当て」をして喧嘩を売る武士もいたようです。一種の力試しであり、自分の存在感や力を示すための行動といえます。「鞘当て」とは、日本独自の歴史の中で生まれた言葉であり、外国人には理解しがたいことかもしれません。他にも歌舞伎の演目に由来する、二人の男性が一人の女性を巡って争う「恋の鞘当て」などの表現もあります。

現代においても、「鞘当て」という言葉は国家間の対立を示す比喩として使われます。特に資源や領土を巡る争いは「鞘当て」が発端になることが多く、まさに「経済は土地と資源の奪い合い」であると実感されます。

世界最大の産出国・オーストラリア、世界最大の輸入国・中国

第一講でお話しした通り、世界最大の鉄鉱石産出国はオーストラリアです。特に北西部、西オーストラリア州のピルバラ地区が世界有数の産出地となっています。世界の鉄鉱石埋蔵量は850億トン(2022年、USGS)で、そのうちオーストラリアは31.8%、つまり約270億トンを占めています。これをオーストラリアの生産量5.65億トン(2020年、USGS)で割ると、およそ48年分の埋蔵量があることになります。

鉄鉱石の世界最大の産出国であると同時に、オーストラリアは世界最大の輸出国でもあります。オーストラリアから鉄鉱石を輸入している国は、中国(6億9,390万トン)、日本(6653万トン)、韓国(5529万トン)、台湾(1839万トン)などに集中しています(2021年)。中国の鉄鉱石輸入総量が11億2,563万トンであるため、輸入する鉄鉱石の61.6%をオーストラリアに依存しているのです。

数値だけ見ると、豪中関係は安定した供給と需要のバランスが取れているように見えますが、実際には経済的にも政治的にも緊張が常に存在しています。まさに「鞘当て」のような関係です。

オーストラリアの鉱山業者が鉄鉱石の価格を引き上げれば、中国はコストを抑えるために新しい供給地を探すか、輸入量を減らすでしょう。逆に、中国がオーストラリアからの鉄鉱石輸入量を減らすと、オーストラリア経済に大きな影響を与えます。

コロナ禍が明け、2023年の中国の鉄鉱石輸入量は過去最高を記録し、前年比6.6%増となりました。2021年と2022年には、北京が炭素排出を抑制するために年間鉄鋼生産量の上限を設定し、その結果、鉄鋼の主要な製造原料の需要が減少していました。2021年の鉄鉱石輸入量は前年比3.9%減、2022年は1.5%減少していました。

しかし、2023年は鉄鋼生産量に上限が設けられず、結果として鉄鋼の生産が活発になりました。中国の不動産市場の問題が長引く中で、COVID-19の影響からの経済回復を図る動きが見られ、2023年1~11月の粗鋼生産量は前年同期比1.5%増の9億5,214万トンとなり、鉄鉱石の需要が増加しました。

豪中、二国間貿易の歴史

オーストラリアが中華人民共和国と国交を樹立したのは1972年、当時の首相はゴフ・ウィットラムでした。彼は1954年から中国の承認を提唱しており、1972年に労働党党首となり、首相の座に就くと、わずか数週間で中国との国交を樹立しました。これにより、豪中の二国間貿易が本格化しました。

1989年6月の天安門事件時、ボブ・ホーク首相は人道的観点から中国に抗議の声を上げましたが、経済関係の重要性を認識し、断絶することはありませんでした。政治と経済は時に密接に結びつき、時に隔たるものです。

ジョン・ハワード政権(1996~2007年)では、胡錦濤・中国国家主席がオーストラリア議会で演説するなど、豪中関係は良好でした。続くケビン・ラッド政権(2007~2010年)では中国の人権問題を指摘し、豪中関係は冷え込みましたが、2013年のジュリア・ギラード政権(2010~2013年)では中国と「戦略的パートナーシップ設立」に合意し、豪中関係は徐々に修復されました。

トニー・アボット政権(2013~2015年)では、「戦略的パートナーシップ」が「包括的・戦略的パートナーシップ」に格上げされ、豪中FTAの締結、AIIBへの加盟など、豪中関係はさらに深化しました。

しかし、マルコム・ターンブル政権(2015~2018年)では、対中安全保障の懸念が顕在化し、二国間に緊張が走りました。オーストラリア北部のダーウィン港における中国企業との賃貸契約が発端となり、安全保障上の問題が浮上しました。政治は政治、経済は経済とはいえ、安全保障の懸念が一度生じると、疑念は止まりません。

オーストラリアはニュージーランドと共同で香港や新疆ウイグル自治区での人権問題に対して懸念を示し、日本、アメリカ合衆国、インドと共に「日米豪印戦略対話(QUAD)」を設立し、アメリカ、イギリスと共にAUKUSを設立しました。

このように、豪中関係は浮き沈みを繰り返しています。2020年以降、コロナ禍に突入してから豪中関係は悪化し、中国はオーストラリアに対して貿易制裁を発動しました。このとき対中輸出が減少したのは石炭でした。詳細については、また別の機会にお話しします。

中長期的には輸入量が減るかもしれない

石炭は中国の貿易制裁の対象となっていましたが、鉄鉱石は対象外でした。オーストラリアにとっての中国市場は、自国経済にとって財輸出額全体の4分の1を占めていますので、二国間の関係悪化により中国がオーストラリアからの鉄鉱石輸入を大幅に減らすことになれば、オーストラリア経済への影響は非常に大きいと考えられます。

では、中国がオーストラリアからの鉄鉱石輸入を減らす可能性はあるでしょうか? その場合、代替供給地を探さなければならないのですが、中国と関係が良好な候補先として考えられるのはブラジル、そしてアフリカのギニアでしょう。しかしブラジルでは2019年に鉱山事故が発生していますし、またアフリカのギニアでは2021年にクーデターが起きるなど政情が不安定ですので、すぐさまオーストラリアの代替供給地となりうるかといえば難しい状況です。

しかし長期的に見ると、先進国の多くがそうであったように、近年の中国も重厚長大型産業から先端技術産業へと産業の中心が移りつつありますので、徐々に消費主導型経済が出来上がりつつあります。2021~2025年の第14次5カ年計画では、温暖化ガスの排出量削減などを目指して粗鋼生産量の抑制を発表していますので、今後は鉄鉱石の輸入そのものが徐々に減っていく可能性が考えられます。

洗練されたスマートデバイスが並ぶHUAWEI(華為)のショップ

つまり、中国の対豪鉄鉱石輸入は、短期的には減らないけど、中長期的に減るかもしれないと予想できます。「金の切れ目が縁の切れ目」とはまではいいませんが、オーストラリア経済にとっての中国市場の重要性が低下していくことで、二国間関係は新たな局面を迎えるかもしれません。

豪中関係はまさに「鞘当て」のように、常に緊張を駆け引きが続く中、双方がいかに柔軟に対応し、バランス保つかが問われているように思います。


宮路 秀作 地理講師、日本地理学会企画専門委員会委員、コラムニスト、Yahoo!ニュースエキスパート
現在は、代々木ゼミナールにて地理講師として教壇に立つ。代ゼミで開講されているすべての地理講座を担当。レギュラー授業に加え、講師オリジナルの講座である「All About 地理」「やっぱり地理が好き」も全国の代ゼミ各校舎、サテライン予備校に配信されている。また高校教員向けに授業法を教授する「教員研修セミナー」の講師も長年勤めるなど、「代ゼミの地理の顔」。最近では、中高の社会系教員、塾・予備校の講師を対象としたオンラインコミュニティーを開設、地理教育の底上げを目指して教授法の共有を行っている。
2017年に刊行した『経済は地理から学べ!』(ダイヤモンド社)の発行部数は6万4500部を数える大ベストセラーとなり、地理学の普及・啓発活動に貢献したと評価され、2017年度日本地理学会賞(社会貢献部門)を受賞。2023年にはフジテレビのドラマ「教場」の地理学監修を行った。学習参考書や一般書籍の執筆に加え、浜銀総合研究所会報誌『Best Partner』での連載、foomiiにてメルマガを発行している。

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