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「J-POP海外進出に見る日本の未来志向」人生を変えるJ-POP[第52回]

たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。

2年2ヶ月に亘って書いてきましたこの連載も、今回が最終回になりました。
2年余りの間に書かせて頂いたアーティストは50人。

今回は、その総括ともいうべき内容で、現代のJ-POPの傾向や特徴、さらには、今後、どのような可能性があるのかについて書いていきたいと考えています。


ところで、そもそもこの連載がなぜ、「人生を変えるJ-POP」というタイトルになっているのか、というところから話をさせて頂こうと思います。


専業主婦から音楽評論家へ。私の転換点

私は現在66歳。そう言うと、多くの方は、私が若い頃から音楽評論を書いてきたと思われます。ですが、実は私が音楽評論家になったのは、今から4年前のちょうどコロナ禍真最中、2020年4月のことでした。

では、それまで私は何をしていたのかと言えば、単なる主婦だったのです。
いえ、これは正確とは言えません。なぜなら、私は専業主婦ではなく、自宅でコーラスやピアノを教える仕事をしていたからです。

仕事といっても、フルに朝から晩まで働いている訳ではなく、主に夕方以降の子供達が帰ってきてから夕食までの時間が私の仕事の時間でした。

それ以外は、多くの主婦と同じように、夫と2人の子供の世話、そして、同居する実母の世話をしていた主婦でした。

そんな私が、なぜ、音楽評論家になったのか。多くの人は、初対面のとき、私の職業を聞くと「人生で初めて出会った」「音楽評論家という職業があるのは知っていたけれど、実際に会うのは初めて」と言います。

そして、次に尋ねられるのは、「音楽評論家ってどうやってなるの?」です。それほど、珍しい職業であり、何を隠そう、私も自分がなるまでは、ほとんど、意識にすらのぼったこともないような職業だったのです。

なぜなら、音楽評論家という仕事は、それまでの私の日常とはあまりにもかけ離れた職業だったからです。

私は音大の声楽学部を出て、独身の頃はプロのボーカルグループに所属し、「歌」の仕事をしていました。音大ですから当然勉強してきたのはクラシックです。ですが、元々、ミュージカルやレビューが大好きで、幼少期から宝塚歌劇の大ファンでもありました。

そんな私には、クラシックの王道であるオペラではなく、ポップスやミュージカル、ときにはお客さんの要望で演歌まで歌うボーカルグループの仕事は非常に楽しかったです。

結婚後は、歌を歌う仕事ではなく、ピアノや歌を教える仕事に徐々にシフトしながら、主婦業をこなしていました。なぜなら、音大を出た私は、歌やピアノを教えること以外に何の資格も持ち併せていなかったからです。パートに出るよりはいいだろう、という安易な理由で仕事をしていたと言えるかもしれません。

ですから、私の感覚の中では、先ず主婦である、ということが最優先。
その頃の私を知る友人は、「良妻賢母の鏡」だったと言います。

なんでも夫の決断に従い、子供達に求められることには100%応える、ということを念頭に置いて毎日を生活していました。

多くの女性が結婚、出産後に体験する「自分のことは後回し」「自分のことを考えている余裕はない」という生活に私もドップリと浸かっていたのです。

そして、そういう生活にある部分では満足していたと言えるでしょう。
自分を必要としてくれる夫や子供達がいるということに満たされていたからです。

そんな私が、「自分」というものを取り戻すきっかけになったのが、1人の歌手との出会いでした。

「人生を変えた」J-POP

その歌手との出会いは、ちょうど浪人中の息子の受験直前、2010年1月のことでした。それまでの数年間、夫と息子の関係は思春期にありがちな男同士の歪み合いのような時期を経て、私は息子の浪人が決まったときに、今後は息子の決めたことには一切反対しない、と決意していました。

それでも1年の浪人生活の決算とも言うべき受験を目の前にして、家中が重い雰囲気の中にあったことは確かなことです。

母としての反省や重圧に気持ちが暗くなりがちで、音楽を教える仕事は疲れた私の神経を逆撫でするように感じる毎日でした。

そんなとき、たまたま大学生の娘が聞かせてくれたあるアルバムの歌声の1つに惹かれたのです。

なぜ、歌声の1つと書いたかと言えば、その人はあるグループのメンバーだったからです。

これが私がJ-POPというものを本格的に聴き始めるきっかけです。そのアルバムの曲は、私の知らないものばかりでしたが、1人の歌声が耳に心地良く、「歌声で心が癒される」ということを私は初めて経験したのでした。

4歳の頃から何十年と自分が歌ったり、教えたりという“音楽を提供する仕事”に携わってきた私が、初めて歌声によって心が癒される、という、“音楽を享受する側”に変わったのです。

私はその感動をレビューに書いて、レビューコンテストに応募。これが、私が音楽評論を書く始まりです。

2018年からは、その歌手以外のJ-POPの楽曲も聴くようになり、多くの歌手のシングルやアルバムなど実に1000曲以上を聴いては、レビューを書き続けてきました。

この実績が認められて、音楽評論家の団体に所属が認められたのです。これが4年前のことであり、それからは、団体のホームページにエッセイやレビューを書いたり、2年前からは、この連載を書かせて頂いています。

この連載の初めに固定されている文章、“たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります”という文章は、まさに、私自身が1人のアーティストに出会ったことで人生が変わったことをそのまま表している文章です。

私だけでなく、多くの人が同じような体験をしていることでしょう。時には、人の人生を変えてしまうほどの力を持つコンテンツ。それが音楽というものなのです。

さて、私の人生の前置きはこれくらいにして、この連載の集大成とも言うべき、現代のJ-POPについて書いていきたいと思います。

Jポップは1988年に生まれた説

ところで、あなたは、「J-POP」という言葉がいつ、この日本に誕生したか知っていますか?

私が10代から20代の頃、即ち、1970年代から80年代には、「J-POP」という言葉はありませんでした。その頃は、流行歌は、歌謡曲という名称で、演歌、フォークソング、ロック、ニューミュージックなどにジャンル分けされていたと思います。

では、「Jポップ」という言葉は、いつ生まれたのでしょうか?

「Jポップ(J-POP)」という言葉が生まれたのは、1988年の年末。今も番組が続いているFM局、“J-WAVE”は、当時、10月に開局したばかりで、何人かのスタッフが集まっては、番組の進行をどうするのかというミーティングを重ねていたそうです。

当時、ポップスと言えば、日本では洋楽、いわゆる欧米のポップス音楽のことを指していたとか。そのため、J-waveでは、ほぼ一日中、98%以上、洋楽をオンエアしていたと言うのです。

しかし、その頃、日本でも新しいサウンドが生まれつつあり、スタッフたちは、洋楽しか流さない番組の中でなんとか邦楽をオンエアするコーナーを始められないだろうかということを考えていました。

そして、そのコーナーで、洋楽に対して、日本のポップス音楽をどのように呼ぶか、ということの議論を活発にしていたのです。

日本のポップス音楽は、いわゆる和製ポップスであり、そのまま英訳して、ジャパニーズ・ポップスとか、ジャパン・ポップスとか、または、都会的な音楽という意味で、シティポップス、タウンポップスという案も出ていたと言います。

そんなとき、誰かが言った「Jポップ」でいいんじゃない?ここはJ-WAVEだし、Jに引っ掛けて名前をいろいろ作れそうじゃないか」という発言に同席者からは思わず苦笑が漏れたと言います。

これが「Jポップ」という言葉の生まれ落ちた瞬間だったのです。(参照文献 岩波新書「Jポップとは何かー巨大化する音楽産業―」鳥賀陽弘道著)

日本の音楽シーンを大きく変えた宇多田ヒカルの登場

実は、この議論には、私が所属しているミュージック・ペンクラブの先輩でラジオ番組ディレクターでジャズ評論家の櫻井隆章氏が加わっていて、まさに「Jポップ」という言葉の誕生の瞬間に立ち会っていたとか。

彼の弁を借りると、それまで洋楽ばかりのポップス音楽の中で、洋楽の影響をそれほど受けていないのにサウンドとして十分成立しているものが誕生してきたのが、ちょうどその頃だったそう。

その筆頭に初期のSMAPが存在していたとのこと。まだ6人体制で活動していた頃の初期の彼らの楽曲は、その頃の日本にとっては新しいサウンドだったと言うのです。

そして、1998年に登場してきた宇多田ヒカルやMISIAの楽曲は、歌詞を除いて音楽だけ聴けば、十分洋楽サウンドとして成立するほど、それまでの日本のポップスとは全く違うものだったと言います。

1970年代から80年代にかけて台頭していたニューミュージックと呼ばれる日本のポピュラー音楽の代表格とも言うべき山下達郎や松任谷由実などの楽曲は、まだどこかに歌謡曲の要素を漂わせるものでした。

しかし、宇多田ヒカルの『First Love』の出現は、ニューミュージック後の90年代を席巻した小室音楽を確立した小室哲哉に「僕の時代は終わった」と言わしめるほどの衝撃を与えたと言われています。

それほど、当時15歳だった宇多田ヒカルの登場は、日本のポップス音楽の流れを大きく根底から変えていくものだったのです。そして、同時に、ここから急速にJ-POPという言葉が日本社会の中に浸透していったと思われます。

K―POPが世界の音楽ジャンルのひとつになった

そして、もうひとつ、J-POPという言葉が普及していった背景に韓国音楽の日本市場への流入があります。日本と韓国は、1998年に「日韓パートナーシップ」というものを締結しました。

これは、当時の日本の首相である小渕総理大臣と韓国の金大中大統領によって結ばれたものですが、このことにより、スポーツや音楽などの分野では、両国の交流が盛んになっていきました。

これらの動きの中で、韓国の音楽であるK-POPに対して、日本の大衆音楽の総称としてJ-POPという言葉が広く使われるようになっていったのも、この時期と言えるかもしれません。

その後、日本では韓流ブームと呼ばれる韓国ドラマや音楽に人気が出て、BTSの世界的な活躍もあって、K-POPは音楽ジャンルの1つとして定着するまでになっています。

J-POPという言葉が浸透していく過程で韓国のK-POPに対抗する言葉として広がって言ったとも考えられます。

ここからは、宇多田ヒカルなどが出てくる以前の日本の音楽と、それ以降、現代までのポップスの違いについて述べていきたいと思います。

与えられた曲を歌う歌手と、自作曲を歌う歌手

彼女が出てくる以前の1970年代、80年代の日本のポップス音楽は、「作詞家、作曲家によって作られた楽曲を歌手が歌う」ということが当たり前でした。

歌手は、あくまでも歌を歌う、ということに特化しており、自分で曲を作るということは、ニューミュージックのアーティスト以外では、非常に少なかった時代でもあります。

ですから、作詞家の阿久悠や松本隆、なかにし礼など、ヒット曲の代表格と言われる作詞家たちが多く輩出されたのも、この時代の特徴だったと言えます。

いわゆる日本のアイドル文化の走りとも言える新御三家(郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎)や中三トリオ(森昌子、桜田淳子、山口百恵)などに始まり、松田聖子や中森明菜などのアイドルと呼ばれた人達の多くが、作者から提供された楽曲を歌っていました。

即ち、この頃は、作詞家、作曲家、歌手というふうに、3つの職業が分離されていた時代とも考えられます。

この流れが大きく変わったのが1998年。若干15歳で自作曲の『Automatic』でデビューしてきた宇多田ヒカルの出現によって、歌手自身が作った曲を自分で歌う、という流れに変わっていくのです。

しかし、彼女のように自作曲を歌うという歌手の出現は、いきなり現れてきたのではなく、1970年代半ばから、その芽はあちこちにあったと言えるかもしれません。

ニューミュージックの旗頭であるユーミンの存在は、多くのバンドマンにアレンジャーとしての機会を与えたとも言えます。即ち、彼女が作ったメロディーをアレンジしてバンドマンが演奏出来る形に仕上げていくという部分において、アレンジの技術が求められるようになったのです。

それまでの作詞家、作曲家、という職業だけでなく、編曲という技術が自作曲を歌うアーティスト達には必要とされていくようになるのです。優れたアレンジによって、アーティストが作ったメロディーをどのような音楽にでも仕上げていく技術が求められるような流れも生まれて来ました。

バンドというものの存在が音楽には不可欠の要素になり、このような流れの中で、安全地帯やサザンオールスターズなど多くのバンドが生まれたのも1つの流れだったと考えます。

提供された楽曲を歌手が歌う、という音楽スタイルに加えて、誰かが作ったメロディーをバンドメンバーが集まって、アレンジしながら、皆で作り上げていく、という共同作業による音楽のジャンルが加わってきたのです。

VOCALOIDは、音楽の作り方も変えてしまった

メロディーは作れても、実際にそれを音に仕上げていくには、バンドマンの存在が必要不可欠、という価値観を根底から覆したのがVOCALOID(ボーカロイド)の出現だったかもしれません。

2003年にヤマハから発売されたVOCALOIDというコンピューターソフトは、それまでの音楽の作り方を大きく変えたものと言えるでしょう。

たとえ楽器が演奏できなくても、メンバーがいなくても、メロディーと歌詞さえ浮かべば、歌手すらもいらない。どこでも誰でも1人で音楽を作り出すことが出来るVOCALOIDというコンピューターソフトの開発は、誰もに大きなチャンスと可能性を与えたと感じます。

以前なら、作詞作曲だけでなく、アレンジをするのに、楽器が弾けるかどうかの有無、そして一緒に演奏するメンバーの存在が必要不可欠だったのが、コンピューター1つでたった1人で曲を作ることが可能な時代がやってきたのです。

これが、J-POPを大きく変貌させていく要因になったことは確かなことだと思います。

米津玄師やYOASOBIのayaseのように、作詞作曲からアレンジまで1人でこなす時代がやって来たのです。

楽器が弾けなくても、自分の中に音のイメージさえあれば、コンピューターを使って、それを再現することが可能だということなのです。

CDやアルバムなどから、デジタルコンテンツの配信への移行

また、CDやアルバムの売れ行きによってヒット曲が決まるというアナログの時代から、サブスクリクションによって気に入った音楽だけを購入して聴く時代へと変貌していきます。

音楽というコンテンツの価値が大きく変容し、CDという形あるものから、デジタルコンテンツによる配信という目に見えないものへと移り、CDを購入しなくてもダウンロード数や再生回数によってヒット曲が決まっていくという時代に変わっていくのです。

さらにこの流れは、2020年のコロナ禍で一気に世界中に広がって行きました。

誰もがネット環境を利用して、世界のどこにいても、発売と同時に世界中のアーティストの新曲を聴くことが出来る時代、さらには、メジャーデビューしていなくても、配信さえしていれば、誰かが見つけてくれることでブレイクし、ヒット曲が生まれていく可能性がある時代がやって来たのです。現代は、誰もがヒットメーカーになるチャンスが転がっています。

一夜明けたら、自分の楽曲が世界中に拡散され、多くの人々が知る存在になっているという夢のような出来事が現実味を帯びている時代とも言えます。
このような世界的な流れの中で、いち早く海外進出とジャンルの確立を果たしたのがK-POPでした。

K-POPは、国内市場の小ささから、最初から海外市場をターゲットとして作られたコンテンツであると言われています。

音楽や映画という文化を世界に発信することによって、韓国という国のイメージを良いものにし、韓国に興味を持って貰うことで観光客を誘致しよう、という狙いがあったとのこと(

BTSを始めとするK-POP音楽が世界を席巻しているのは、国策とも言える戦略の勝利と言えるでしょう。

雑多な音楽が共存しているのが、日本の音楽界

これに対し、J-POPは海外進出やデジタル化が遅れたと言われています。しかし、コロナが下火になった昨年からは、日本のアーティストによるワールドツアーが盛んに行われるようになって来ました。

RADWIMPSの野田洋次郎が話すように、今、世界の多くの国でJ-POPの音楽の人気が高まり、会場では日本語の歌詞が飛び交っています。

その大きな要因の1つに、前段で述べたVOCALOID音楽の存在があります。AdoやYOASOBI、米津玄師などが歌うボカロ音楽は、高速メロディーや言葉数の多さなどの特徴を持つものが多く、VOCALOIDで作った楽曲を、YOASOBIのikuraや米津玄師のように、アーティスト自身の声で歌う、ということによって、バーチャル音楽のさらなる進化を遂げているとも考えられます。

現代のJ-POP音楽界は、小田和正や玉置浩二のような60代、70代の歌手から、Adoのように20歳そこそこの歌手まで、多世代のアーティスト達が活躍しています。

またそれに伴って、J-POPの歴史の変遷そのものを感じさせるような多種多様な音楽。たとえば、三浦大知や藤井風に代表されるようなR&Bの王道ポップスから、ロック、ボカロ音楽まで、実に雑多な音楽が存在しているのが、J-POPの特徴でしょう。

そして、それらの音楽の多くが、アーティスト自身から生み出され、演奏するのも自身であるというシンガーソングライター全盛時代でもあるのです。

これに対し、中田ヤスタカや秋元康、蔦谷好位置などに代表される優れたプロデューサーの手によって生み出される世界もあり、音楽の視覚化による魅力発信という点では、Adoや凛として時雨に見られるようなバーチャル映像と一体化した音楽も大きな役割を担っていると言えます。

アニメ映画とのタイアップで世界へ広がる

さらにこれらのJ-POPを世界に推し出す強力なコンテンツの1つにアニメ映画とのタイアップがあります。

先に掲げた野田洋次郎の音楽などは、新海誠監督の映画とタイアップすることで、急速に世界中に認知度が高まりました。

また、昨年、世界中で大ブレイクしたYOASOBIの『アイドル』という楽曲は、その典型的な例の1つと言えるでしょう。

映画「推しの子」のテーマソングとして作られた『アイドル』は、「推し」という日本語と共に日本独特のファン文化を世界中に広める役割を果たしたと考えます。

主題歌を歌ったYOASOBIは、この曲のヒットによって、アメリカ最大野外音楽フェスティバルであるコーチェラへの出演を果たし、その後、ホワイトハウスの公式晩餐会にも招かれてJ-POPの代表アーティストとして一気に世界中に認知が広がって行きました。

さらに特筆すべきは、韓国での活躍です。日本でのK-POPを主体とした韓流ブームに反して、韓国では、日韓パートナーシップがあるにも関わらず、文化交流を決めた1998年以降も、相変わらず日本語の歌が韓国のメディアで放送されることはありませんでした。

ところが、昨年は『アイドル』のヒットによって韓国でもYOASOBIの人気が高まり、代表的な音楽番組でもあるケーブルテレビの「Mnet Countdown」に出演。そこで堂々と日本語で『アイドル』を熱唱したのです。このことは、韓国のTV局で日本語の歌が生放送されるという画期的な出来事になりました。

なぜなら、韓国の放送界では、日本語の歌を生放送しないという暗黙の了解が長く行われて来たからです。これは、日本語の歌を放送すると必ずクレームが来るということから、批判を避ける手段としての暗黙の了解がなされていたことを表しています。

ところが、YOASOBIの人気は、そういうものを一気に吹き飛ばしてしまいました。

放送後、発表されたYOASOBIの韓国ライブはチケットが1分で完売。1日追加公演が行われ、会場に集まった約8000人の観客は、日本語で『アイドル』の歌詞を大合唱したということが、大きくメディアに取り上げられたのです。

また、YOASOBI自身が、会見の中で、「K-POPが好き」「K-POPアイドルが日本に進出してくることは嬉しい」などという発言があり、それもメディアに好意的に迎えられた要因の一つのように思われます。

このように、長年に亘って両国間にあった過去の歴史的、政治的わだかまりからの暗黙の了解をYOASOBIは『アイドル』という、たった1曲の音楽で飛び越えてしまったと言えるでしょう。

これこそ、言語の壁を越え、国境を越えていく音楽というコンテンツの強さではないかと感じます。

歌を聴かせる音楽。それがJ-POPの神髄

今、世界を席巻しているK-POPが「見せる音楽」であるなら、J-POPは「歌を聞かせる音楽」であり、統率の取れた理路整然とした美しさを誇るK-POPに対して、多種多様で雑多でごった煮のような音楽こそがJ-POPの真髄というべきものではないでしょうか。

そこには、どんな音楽も文化の流入も、最終的には自分達のものとしての息を吹き込み、独自のオリジナルコンテンツに仕上げていく雑草のような粘り強さがある日本人の特性がよく現れていると感じます。

ワールドツアーや海外でのツアーを体験してきたアーティストが必ず口にするのは、「観客が日本語で歌ってくれることの感動」と「自分達の手で日本語の良さ、日本の文化の良さを伝えて行きたい」という言葉です。

かつては、海外に進出するなら、英語の曲を作らなければいけない、という価値観に囚われていた日本の音楽は、今、堂々と若い世代が日本語で自分達の音楽を発信し、日本語の良さ、日本文化の良さを広く海外の人に伝えていく役割を担おうとしています。

ポップスといえば、洋楽、欧米音楽のことを指した時代から、洋楽の影響を受けながらも自分達の音楽を作り出してきた1970年代、80年代を経て、独自のJ-POPサウンドを生み出した2000年前後のアーティスト達の音楽を聴きながら育って来た世代。

この世代が現代のJ-POPの若手世代であり、彼らの音楽こそが、日本人の持つオリジナリティーを生み出す力の象徴とも言えるでしょう。

今後、J-POPは彼らの手によって、さらに進化発展して、世界に日本の良さを広める強いコンテンツとして存在していくと思います。

2年2ヶ月に亘って書いて来たこの連載も、今回が最終回となりました。50人という日本のアーティストを書かせて頂きましたが、扱えなかったアーティスト達もたくさんおり、さらにこうしている間にも、第2、第3の藤井風やYOASOBIのような存在が誕生しているやもしれません。

画一的な音楽ではなく、雑多で豊富なジャンルのJ-POPが存在できるということは、それだけ社会の受容度の成熟度を表していると感じます。

懐の広い国民性、それがJ-POPそのものであり、日本文化の象徴ともいうべきものであるということを最後に書き添えて、この連載を終わりたいと思います。

長くご購読をありがとうございました。また、どこかでお会いできることを楽しみにしております。


久道りょう
J-POP音楽評論家。堺市出身。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン元理事、日本ポピュラー音楽学会会員。大阪音楽大学声楽学部卒、大阪文学学校専科修了。大学在学中より、ボーカルグループに所属し、クラシックからポップス、歌謡曲、シャンソン、映画音楽などあらゆる分野の楽曲を歌う。
結婚を機に演奏活動から指導活動へシフトし、歌の指導実績は延べ約1万人以上。ある歌手のファンになり、人生で初めて書いたレビューが、コンテストで一位を獲得したことがきっかけで文筆活動に入る。作家を目指して大阪文学学校に入学し、文章表現の基礎を徹底的に学ぶ。その後、本格的に書き始めたJ-POP音楽レビューは、自らのステージ経験から、歌手の歌声の分析と評論を得意としている。また声を聴くだけで、その人の性格や性質、思考・行動パターンなどまで視えてしまうという特技の「声鑑定」は500人以上を鑑定して、好評を博している。
[受賞歴]
2010年10月 韓国におけるレビューコンテスト第一位
同年11月 中国Baidu主催レビューコンテスト優秀作品受賞