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山上の説教に学ぶ


旧約聖書の足らないところ


「わたしが来たのは律法や預言者を・・・完成するためである」
  (マタイによる福音書 5章27節)

 この 「完成する」 という言葉はギリシャ語では、「成就する」 「満たす」「欠けたところを埋める」 という意味です。

 そうすると、「律法や預言者 (=旧約聖書) を完成させる」 とは、

「旧約聖書の不足しているところを埋める」
「未完成の旧約聖書を満たして完成させる」 という意味になります。


 すなわち、イエス様は、不十分なままになっている旧約聖書を完成させ、
完全なものにするために来られたのです。

 それでは、旧約聖書の欠けた所というのはどういうところでしょうか。


 旧約聖書の欠けているところ、
それは律法を守ることは教えてくれますが、
守る力を与えてくれないということです。


 「これこれこれだけの律法を守りなさい。そうすれば、神さまはあなたを豊かに祝福して下さる。」 と言います。

そしてこれを聞いて私たちは一生懸命に守ろうとします。

しかし守れないことが多いのです。


 それはなぜかというと、私たちの心の中には罪や弱さがあるからです。

 神様に従うことよりも、自分の思い通りに、欲望の赴くままに生きたいという思いがあります。

 そしてまた隣人を愛し、隣人を大切にすることよりも、自分のほうが大事であったりするのです。

 だから自分にとって都合の良い時は従えますけれど、
自分にとって都合が悪くなると従えないのです。

そこが旧約聖書の限界だと言っていいでしょう。

イエスが来られた意味


 しかしイエス様はその限界を乗り越える道を備えてくださったのです。

私たちの心の中にある古い自分は、イエス様の十字架の死にあずかって、1度死んでしまったのです。
そして新しく生まれ変わらせていただいたのです。

 そして今まで自分中心の思いに支配されていた私たちの心の中は、
聖霊に満たされ、神様の愛と力に支配されるようになります。

 心の中が神様の愛と力に支配されるとき、
私たちは命じられなくても、神様を愛し、隣人を大切にするようになってくるのです。

例えば「安息日を大切にしなさい」 と命じられなくても、
安息日を大切にするようになるのです。  

 「姦淫してはならない」 と言われなくても、
そんなことする気にもならないのです。

 そのように心の奥底から変えられるのです。

 (2009年10月11日 上山田教会での礼拝説教より)


***

結婚の神聖さ
 

姦淫について


 「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
 (マタイによる福音書 5章 28節)

 29節と30節に入りますと、イエス様はこんなことをおっしゃっておられます。

「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。
右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。」

マタイ 5章29〜30節

 私たちは、こういう御言葉を聞きますと 「厳しいなぁ」 と思いますし、
イエス様の教えにはついていけない。」 と思うでしょう。


イエス様の真意は何か?


 確かに、右の目も右の手も、それは私たちにとって無くてはならない大切なものです。決して失いたくないものです。

 しかしそういうものでさえも、結婚相手との関係に比べれば、そんなに大したことはない。  
 結婚相手との関係のほうが、よっぽど大切なのだ。
とイエス様はおっしゃっておられるのです。

 つまり、そこまでしてでも、夫や妻、あるいは相手の家庭を大切していく
ということです。

 言い換えれば、
「あなたの妻や夫は、あなたの目や手よりも大事なものでしょ」

「自分の大事な目や手を犠牲にしてでも、妻や夫を守っていきなさい。」

とイエス様はおっしゃっておられるのです。

 イエス様は、そこまでしてでも、神様が結び合わされた関係を大切にしなければならないということを教えておられるのです。


キリストは、どうであったか


 それでは、こんなことをおっしゃられるイエス様はどうなんでしょうか。
 イエス様は目や手を切り取るぐらいではありませんでした。
イエス様は十字架に架かって命でさえも与えてくださったのです

私たちのために、そこまでしてくださったのです。

言い換えれば、イエス様は、
まさにご自分の目や手以上に、いや全身を、命を犠牲になさるぐらいに、
私たちのことを大切にし、愛して下さったということです。

 御自分の命以上に、私たちのことを大切に思っておられるのです。

それがイエス様の十字架の愛です。


  神様の独り子であられる主イエス・キリストが、私たちのために、十字架にかかって死んで下さった。

 それは、神様が、私たちを、ご自分の独り子よりも大切にして下さったということでもあるのです。

 イエス様は、ご自分の目をえぐり出し、手を切り捨ててまで、私たちの罪を赦して下さったのです。

 このイエス様の十字架を思う時、私たちは、神様が結び合わされた関係を
本当の意味で大切にすることができるのです。


離婚について

「だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。」
 (マタイによる福音書 5章32節)

 (注) 「不貞以外の理由」 は、新共同訳 聖書では、「不法な結婚でもないのに」 となっているが、新共同訳の翻訳は、カトリックの影響が強く、真意を正しく伝えていないので、ここでは、新改訳の 「不貞以外の理由」 を採用した。


 離婚ということを考えるとき、私たちは、キリストと私たちとの関係を
考えてみなければならないだろう。

キリストは、私たちが不信仰だからと言って、私たちを見捨てたでしょうか? 

 私たちがイエス様に背いて、罪を犯したからと言って、
イエス様は私たちを見捨てたでしょうか?

 イエス様は、イエス様に絶えずそむいているような私たちのために
自らの命を投げ出して、十字架にかかって死んでまで、私を救い出してくださいました。愛してくださいました。

そしてイエス様は、今でも変わらぬ愛をもって
私たちのことを愛し続けていてくださるのです。

イエス様は私たちを離縁なさったりはなさらないのです。

「もうお前は、つまらなくなったから、別れてくれ」 などとはおっしゃいません。

 結婚式では、新郎と新婦が誓約しますが、
その何百倍もの真実さで、イエス様は、私たちを永遠に愛し抜くと約束されたのです

私たちが、約束や誓いを守れなくても、それでもイエス様は私たちのことを離縁したりはなさらず、 
変わらぬ愛をもって、
命をも投げ出すほどの愛をもって、
私たちのことを愛し続けてくださるのです。


 「夫たちよ。キリストが教会を愛し、  教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」
 (エペソ人への手紙 5章 25節)

 実はこのことが夫婦関係のみならず、神様が結び合わされた人たちとの人間関係を大切にしていくことの原点なのです。
人を愛し、愛し抜く、愛の原動力、愛する力を私たちに与えてくださるのです。

(2009年10月25日 礼拝での説教より



***

 

なぜバカと言ってはいけないの?


「兄弟に 『ばか』 と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』 と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」 
 (マタイによる福音書 5章 22節) 

 イエス様のお言葉は相変わらず厳しいが、イエス様の真意は何だろう?

 まず1つは、どのような視点で相手 (人) を見るかということです。

 私たちは、取るに足らない、無に等しい者です。
しかし、神様は、そんな私たちをも、愛しておられ、
あなたは私の目には高価で尊いんだ (イザヤ 43:4・新改訳)」 と
おっしゃってくださるのです。

自分だけでなく、他の人も同じなのです。

その人がどんなに 「愚かな人」 のように見えても、
神様はその人のことをも愛しておられ、「この人も、私の目には高価で尊いんだ」 とおっしゃっておられるのです。


 2つ目に、マタイ5章24節以降で、イエス様は

「まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」

「途中で早く和解しなさい。」 とおっしゃっておられます。

 ここでイエス様が私たちに求めておられることは、
人に対して腹を立てないということであると同時に、
人と和解すること、仲直りすることの大切さです。


 イエス様は、ここで 「怒るな」「腹を立てるな」 というような
消極的な禁止項目を言いたいのではなく、
もっと積極的に 「和解し」「仲直りする」 ことを語ろうとしているのです。

 私たちクリスチャンも、かつては神様やキリストに対して反感を持っていました。
しかし、イエス様はそんな私たちと和解するために、
私たちの反感や敵意をすべてご自分の身に負って、十字架にかかって死んでくださいました。

 私たちは、その与えられた恵みに応えて、私たちも自分に反感、敵意を持つ兄弟との和解に生きていくのです。

私たちは、イエス様によって、そのように生きることができる者にされているのです。

 それが、律法 (パリサイ人) の義にまさるクリスチャンの義なのです。


(2009年10月18日 上山田教会での礼拝説教より)


***

 

復讐したいと思ったときに


「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」
 (マタイの福音書 5章39節)

 

1.復讐に関する旧約聖書の教え


 「目には目、歯には歯」 (38節)

 この 「目には目を、歯には歯を」 という言葉には、2通りの意味があります。

1つは加害者に対する償いの戒めです。
つまり相手の目を傷つけてしまったのなら、自分の目を差し出すぐらいの、それぐらいの誠意を持って償いなさい
ということです。

そしてもう1つの意味は、被害者に対する復讐に関する戒めです。

被害に遭った人が加害者に復讐する、報復するということが昔は認められていました。

しかし、1発殴られただけなのに、相手に何発も殴って半殺しにするとか、そういうこともあったようです。

そこで過度に報復をすることがないように、自制を促すために自分が受けた被害以上のダメージを相手に与えてはいけないという決まりができたのです。

 つまりこれは、復讐を奨励した律法ではなく、
1発やられたから、相手に1発返すだけで我慢(自制)するという、
復讐を制限する律法なのです。

 

2.復讐に関するイエスの教え


  「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」

 私たちはこういう御言葉を読みますと「こんなこと、とてもじゃないけど、自分には出来ない」 と思うでしょう。

しかし、これは自分で復讐することをやめて、神様に復讐をお任せするということです。

(復讐は神がなすことであり、私たちが自分で行なうべきことではない。)

これは、自分の心が復讐心や怒りに支配されてしまっているということにまず気付かされ、神様に祈り、聖霊に私たちの心を支配していただくのです。

そうするとき、復讐をも神様にお任せすることができるようになります。

神様にお任せすることができたとき、
自分自身は復讐心や 「どうして私がこんな目にあわなければならないのか?」 という怒り からも解放され、心が平安になるのです。

そこからさらに発展して、私たちの心が聖霊に満たされるとき、
単に我慢するだけで終わらず、 
自分に危害を与えた人のことを赦し、
さらに積極的にそんな相手をも愛することができるようになってきます。

自分に対して理不尽なことを行なう相手でさえも、神様は変えてくださることができる。
いつか神様が変えてくださると、そう信じて行くのです。

私たちは、そのときに、右の頬を打つ者に対して、

左の頬を差し出すことができるのです。


そしてそうしていくことは、相手にも、精神的な大きな衝撃を与えるのです。

それは愛の衝撃です。

相手も自分が行なったことに気づかされることでしょう。


(2009年 11月15日 上山田教会での礼拝説教より)

 

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