七海礼奈と黄昏のワルツ【前編】

あらすじ

 四年前に事故で両親を亡くした少女・礼奈。二十二歳の「僕」は、おじさんに頼まれ、彼女とともに、命日の墓参りをすることになる。彼女が幼い時を過ごした大切な場所。失われた人々、時間、記憶。それは彼女のための旅でありながら、しだいに「僕」の心をも揺さぶりはじめる。

 ※この小説はゲーム『雀魂』の二次創作作品です。ゲームをプレイしていなくてもお読みいただけます。


1

 三月の風が僕たちの頬を撫でた。生き物のような湿り気とあたたかさを帯びた風だった。風は無言のまま僕の指や彼女の髪の隙間をさらっていった。生命の中に少しだけ死が混ざりあったような匂いがした。

 墓参りか、と僕は思った。少なくともここ四年はそんな事をした覚えがない。ましてや血のつながっていない、見ず知らずの他人のお墓ならなおさらだ。そしてもう二度とないかもしれない。またこんなふうに不思議なめぐり合わせがない限りは。

「疲れてないかい?」

 僕は彼女に尋ねた。彼女は僕より六つも年下で、しかも幼いときに遭った事故の後遺症のせいで最近歩けるようになったばかりなのだ。道は整備されているとはいえ、広大な霊園の中を歩くのは僕に比べればかなり消耗するはずだ。僕の心配をよそに、彼女はにっこり笑って言った。

「大丈夫。れいなはもうふつうの人みたいに歩けるんだよ」

「ならいいけど……疲れたら無理しないで言うんだよ。適当なところで休憩しよう。時間ならいくらでもある」

 礼奈はくすくす笑った。

「まだ五分も歩いてないよ。心配性だなあ、おにいちゃんは」

 そうでもないさ、と僕は言った。礼奈はちゃんとつないでいることを確かめるように、僕の右手を軽く握った。年下の女の子に手を握られているというのは悪くない感じがした。

 霊園は都西部の見晴らしの良い丘の中腹にあった。いくつかの墓地がかたまってあるところで、駅から入口のすぐ近くまでバスが出ていた。僕たちのほかに何人かの老人が降りて、散り散りにどこかへ向かっていった。きっと彼らも近くの墓地に参りに来たのだろう。僕たちは霊園の事務所で小さな花束を買い、バケツとひしゃくを借りた。

 礼奈はポシェットから小さな紙を取り出して、案内板と見比べていた。霊園はちょっとした都立公園くらいの広さがあり、そこに何千(何万?)という墓石が整然と並んでいる。通路によって区画が分かれていて、アルファベットと番号が割り振られているようだった。なんだか昔住んでいた寮みたいだなと僕は思った。

 案内板で場所を確認すると、礼奈は僕の手を握りなおして、こっちだよ、と言って歩きはじめた。僕は墓の近くに蛇口のマークがあることを確かめてから、礼奈と隣り合って歩いた。

 見渡す限り、墓地には僕たち以外の誰の姿もなかった。聞こえるのは時折風が揺らす木々のざわめきと、僕たちの息づかいだけだった。都心から離れているとはいえ、東京はどこに行っても人がいるような都市だ。こんなふうに静かな場所があるなんてにわかには信じがたい。でもこの場所が静かなのは当たり前なのかもしれなかった。必要もないのに好き好んで墓地に来るような人間はいないだろう。生者には生者の場所があり、死者には死者の場所があるのだ。

 そして我々の世界から失われたものは二度と取り戻すことができない。

 僕がそういう益体もないことを考えていると、礼奈は「C」の区画の前で立ち止まった。墓場が寮の部屋のようにアルファベットと番号で仕切られているというのは、やはり少しおかしな気がした。まるで死者が墓地の管理人の配った番号札を持って整列しているみたいだ。

 ここかい、と僕が尋ねると、礼奈はたぶん、と言った。

「じゃあ水を汲んでくるよ」

 僕が蛇口に向かおうとすると、礼奈は手をつないだままついて来ようとした。僕はびっくりして立ち止まり、彼女の方をちらりと見た。

「おにいちゃんが迷子になっちゃうかもしれないでしょ?」

 彼女は僕を見上げてそう言った。僕は苦笑した。

「そうだね。どうもありがとう」


2

 僕の住んでいるアパートから15分くらい歩いたところにカフェがある。個人経営の小さな店で、客の出入りもさほど多くない。ゆっくりとした時間が流れる。おいしいコーヒーと手作りのケーキを出す。そういうカフェだ。

 僕は大学三年生のときにこの街に引っ越してきてから、暇になるとそのカフェに行き、本を読んで過ごした。騒がしくないカフェは本を読むのにうってつけの場所だった。そして僕は多少コーヒーの違いが分かるようになり、店主のおじさんや彼の姪っ子の礼奈とも顔見知りになった。

 礼奈は不思議なほど僕に懐いてくれた。彼女は数年前に両親を事故で亡くしていて、今はおじさんの家に住んでいるということだった。子供のいないおじさんにとって、きっと礼奈は実の娘のような存在なのだろう。彼女が僕に懐いていることを、彼も好ましく思っているようだった。

 礼奈はいかにも育ちの良いお嬢さんといった感じで、中学生とは思えないほど一つ一つの所作に品があった。彼女の前にいると、まともに訓練を受けたことのない僕は少し恥ずかしくなった。しゃべり方や顔立ちにはまだあどけなさが残っており、そういったところも彼女の魅力を引き立てていた。

 そしておじさんと変わらないくらい、コーヒーを淹れるのが上手だった。


 その日、僕はいつものようにカフェで本を読んでいた。三月の中ごろの暖かい一日だった。誰もが仕事や学校を休んで公園で昼寝をしたくなるような日だ。なんとなくコーヒーが飲みたいような気分になり、僕はちょっとした散歩くらいの距離を歩いてカフェまで出向くことにした。

 コーヒーが運ばれてきてしばらくすると、店の奥から礼奈が僕の方にやってきて、こんにちは、と言った。僕は文庫本を閉じて顔を上げた。向かいに座るように促すと、彼女は椅子を引いてちょこんと腰掛けた。学校帰りのようで、制服のジャンパースカートを着たままだった。長いスカートが彼女によく似合っていた。

「こんにちは。学校は終わったの?」
「今週はテストだったの。今日で終わりだけど」
「ふうん。うまくできたかい?」

 僕が尋ねると、礼奈は少し考えた。

「まあまあかな。でもね、地理はできたよ」
「なるほど。さすがだね」

 えへへ、と礼奈は笑った。僕はコーヒーカップに口をつけた。チョコレートのような甘い香りと、果実を思わせるような酸味を舌に感じる。僕は音を立てないように慎重にソーサーにカップを置いた。

「おいしい?」
「もちろん」

 それから僕たちはコーヒーを飲みながら、他愛ない話をした。僕が飲んでいるグアテマラ・ニューオリエンテというコーヒーについて。それから学校のことや、春休みのこと。コーヒーに関して言えば、礼奈は僕より何十倍も物知りだった。亡くなったお父さんはずいぶんコーヒーが好きだったようで、おじさんの話では、輸入食品を取り扱う大企業に勤めている途中で、バリスタに転職したらしい。その影響下で育った彼女が興味を持つようになるのはある意味ふつうのことなのかもしれない。

 僕がコーヒーを飲み終わるころになると、店は閑散としてきた。カウンターの奥からおじさんが顔を出して、僕にアイコンタクトで挨拶をした。僕は首だけで小さく会釈を返した。店が暇になったからか、おじさんはエプロンを外して僕の方にやってきた。

「こんにちは。いつも礼奈がお世話になっております」

 とんでもない、と僕は言った。それからおじさんは礼奈の肩に手を置いて言った。

「礼奈、お兄さんもそろそろお疲れだろうから、今日はこの辺りで」

 はぁい、と礼奈は聞き分けよく返事をした。僕は構わなかったが、おじさんの何か言いたげな雰囲気を察して黙った。

「また来てくれる?」
「もちろん。すぐ来るよ」

 えへへ、と礼奈は嬉しそうに笑った。

 礼奈が店の奥にいなくなったあと、おじさんは「少しだけお時間を頂いてもよろしいでしょうか」と言った。僕は喜んで、と答えた。もしかすると礼奈には聞かれたくないような話があるのかもしれないと僕はなんとなく思った。

 おじさんは礼奈が座っていた椅子に座り、テーブルに手を組んだ。僕は背筋を伸ばしておじさんと向き合った。

「礼奈の両親が、四年前に他界したのはご存知ですね」

 ええ、と僕は言った。四年前だったか、と僕は思った。四年前。それは僕が高校三年生で、ひどく混乱していた時期だった。そして今も少なからず混乱している。

「礼奈も事故に巻き込まれて、しばらくの間歩けなくなっていました。彼女が車椅子を手放せるようになったのは、お兄さんのお力添えあってのことです。その点に関しては、お兄さんには感謝してもしきれないほどです」

「僕は大したことはやってませんよ。彼女がリハビリを頑張ったからです」

 僕は気恥ずかしくなってそう言った。あまり人からお礼を言われるのに慣れていないのだ。そして僕が彼女にしたことも本当に限定的なことだ。そんなふうに大げさに感謝されるようなことではない。

「お兄さんにまたご迷惑をおかけするのは大変心苦しいのですが、礼奈に関わることでもう一つお願いがあり、こうしてお時間を頂いたのです」

 お願い、と僕は心の中で繰り返した。

「礼奈のためなら何でもします。僕にできることであれば」

 そう言っていただけると助かります、とおじさんは言った。

「お願いというのは、礼奈が住んでいた家のことです。兄には持ち家があり、妻と礼奈と三人で暮らしておりました。二人が他界したあとは名義上私が所有者になっているのですが、住む人もなく、空き家のまま放置しているような状態です。そこで、親戚に欲しがるものもいないのであれば、いっそ売却してしまおうと思っています」

 売却、と僕はつぶやいた。

「そのことは礼奈には話してあるんですか?」
「話しました。本人は構わない、と言っていました。傷ついたような素振りもなく、何度か確認しても心変わりはないようです」

 僕はあいづちを打ち、しばらく考えた。四年前ということは、礼奈は十一歳だ。その時まで亡くなった家族と一緒に生活した家を売り払うことになって、何も思わないということはあるだろうか。

「……礼奈は、よくできた子です。落ち着きがあるし、状況に応じてすべきこととすべきでないことを判断することもできます。そして自分の感情を抑えることにも長けている」
「お兄さんの言うとおりです。ですから、私は危惧しているのです。彼女が真意を隠したまま家を売ってしまうことになるのではないかと」

 なるほど、と僕は言った。なんとなく話の筋が見えたような気がした

「つまり、僕が彼女の気持ちを聞き出せばいいんですね」

 僕が尋ねると、おじさんは首を横に振った。

「そこまでは望みません。それは私がすべきことです。私は彼女に、自分の生家を見てきてほしいと思います。実際に確かめて、それが他人の物になるということについて考えてほしい」

 おじさんは誰かに聞かれていることを警戒するように、周りを見回した。そして誰も我々に注目していないことを確認したあと、僕の方を向き直って言った。

「もうすぐ命日がやってきます。三月二十一日──くしくも彼女の誕生日と同じです。その日に我々は毎年墓参りをします。ですが、今年は私ではなくお兄さんについていってもらいたいんです。そして礼奈が生家に帰るのに付き合ってやっていただきたい。お墓と家はどちらも東京の郊外にあります。交通費はもちろん私が工面しますし、礼奈にもある程度のお金は持たせます」

 東京の郊外──場所によってはここから電車で二時間くらいかかるが、僕にもある程度土地勘はある。僕は上京したてのころ、吉祥寺に住んでいたことがあるのだ。少なくとも電車に乗り間違えるようなことはない。

「そういうことなら喜んでご一緒します。ただ、礼奈と一緒に行くだけなら、どうして僕なんでしょうか……。僕には何か特別な役割を果たすことを期待されているように思えますが」

 おじさんは僕の言葉を聞いて、真面目な顔をして頷いた。

「もちろん、何らかの役割を期待してないといえば嘘になります。けれどあなたはただ礼奈についていってやるだけでいいんです。あなたは礼奈にとって触媒のようなものだと、私は思っています」

 触媒、と僕は繰り返した。

「礼奈はお兄さんを慕っています。あの子があんなふうに誰かに心を開くのはめずらしいことです。私が思うに、礼奈はあなたを通して世界を経験している。それは、あの子が事故の後遺症から恢復したときもそうでした。礼奈はあなたとの交流を通してこの世界に戻ってくることができたのです。私が言っていることは分かりますか?」

「……なんとなく、理解はできます。つまり、僕は彼女の心が世界と接触し、反応するためのつなぎ役のようなものだと考えておられるということですね」

けれど、と僕は言った。

「あなたは僕のことを少し買いかぶっている気もします。僕は確かに彼女のリハビリに付き合いましたが、本当に隣にいただけなんです。僕がいるからと言って彼女の経験が変わるなんてこと、にわかには信じられません」

 おじさんはにっこり笑って言った。

「それは行ってみなければわからないでしょう」

 そう言われてもやっぱり腑に落ちなかったが、僕は曖昧に頷いた。そして僕は礼奈と小旅行をすることになった。

3

 彼女の両親が眠るお墓は、区画の少し奥まったところにあった。棹石に「七海家之墓」と刻印してある。とくべつ古いという印象も受けなかったし、新しいというわけでもなさそうだった。僕はお墓に詳しいわけでもないのでよく分からないが、なかなか立派な代物だった。

 墓の周りはきれいに手入れされていて、僕はそれだけでなんとなく七海家の人々に好感を持った。礼奈はお墓の裏に回って見渡していたが、特に目が向くところはないようだった。

「あんまり汚れてないね。最近だれか来たのかな」

 僕はたぶんね、と答えた。礼奈は線香を取り出して、僕がライターで火をつけた。香炉に立てると、煙が細く空中に上っていった。死者を思い出すような匂いがした。

 礼奈はそのあと一本ずつ花を供えたり、水鉢にひしゃくで水を汲んだり、背伸びでお墓に水をかけたりしていた。僕はそれを見るともなしに見ていた。幼い女の子がやっていると妙な感じがするものだなと僕は思った。少なくとも礼奈のように段取り良く済ますことができる同い年の女の子は見たことがない。

 一連の儀式の準備が終わると、礼奈は僕の方をちらりと見た。僕は頷いて、彼女からひしゃくと花束の包み紙を受け取った。僕は包み紙を小さい正方形に畳み、指に挟んだ。

「……そこにいてくれる?」
「もちろん。ずっといるよ」

 そのために僕はついてきたのだ。僕が言うと、礼奈は安心したようににっこり笑った。それからお墓に向き直り、半歩下がってスカートの裾を払った。そして手のひらを合わせ、目を閉じて静かにうつむいた。

 僕は礼奈の後ろ姿を呆然と眺めながら立っていた。彼女の祈りの姿はまるで一枚の水彩画のようだった。時折春風が吹いて、礼奈のスカートとワンサイドアップの髪を揺らした。バケツに残った水に波が立ち、ちゃぽんと音を立てた。

 考えることがなくなると、僕は透のことを思い出した──というより思い出さずにはいられなかった。礼奈に同伴すると決めてから、僕自身も透のことを考えてしまうだろうと、ある程度は覚悟をしていた。この旅には死を連想させるものが多すぎる。そして礼奈にとっての死が彼女の両親のものであるように、僕にとっての死は透のものなのだ。

 それが分かっていても、心の中の虚無感を引きずり出されるのはなかなかつらいものだった。僕は礼奈に聞こえないようにため息をついた。そろそろ関西に帰って、透に花でも手向けてやるべきなのかもしれない。僕はこの四年間そういったことをしてこなかった。地元にも一度も帰らなかったし、死んだ友達にも手を合わせなかった。

 そうするべきだというのはよく分かっているけれど、やはりどうしてもそういう気分にはなれなかった。この世界、、、、から、あの世界、、、、の透に祈りたいとは、僕にはとても思えないのだ。

 僕はいまだによく分かっていない。透は死んでしまったとして、じゃあなぜ僕は生きているんだろう。僕には、透が死んでいるべき必然的理由も、僕が生きているべき必然的理由も思いつけなかった。僕が生者であることも透が死者であることも無意味だとしか思えなかった。じゃあ一体どうして、誰に向かって祈るっていうんだ?

 しばらく無言の時間が続いたあと、礼奈は手を下ろして線香の火をあおいで消し、香炉から抜き取った。それから僕の方を振り返った。僕は彼を頭の中から追い出し、彼女と目を合わせた。

「もういいのかい?」
「うん。いっぱい話せたよ」

 僕はバケツを持って、礼奈が隣に来るのを待った。礼奈はまた僕の手を握った。

 亡くなった両親と話す?

 僕がそのことを理解する前に、行こ、と礼奈は言った。それで僕たちは来た方角に戻りはじめた。


4

 「麻雀というのはね」と透は言った。
「知的なゲームなんだ。だから頭の悪いやつは勝てない。本当の意味ではね」

 ふうん、と僕はあいづちを打った。その時僕たちはまだ高校生で、関西のそれぞれの実家で暮らしていた。透もまだ手を伸ばせば届くところにいた。

 透は僕の親友で、二年生のときに僕は彼に麻雀を教わり、それから放課後や休日は彼の家に呼ばれてよく打っていた。もうひとりは適当なクラスメイトだったり透のガールフレンドだったり僕の先輩だったりした。僕たちが住んでいたのは、高校生の遊び場と言ったらカラオケ屋かゲームセンターくらいしかないような片田舎の街で、僕たちは遊びに飢えていた。

 実際、透は麻雀が上手かった。もちろんいつも彼が勝っていたわけではないだろうが、僕が勝っていたところをうまく思い出すことができない。それに、全国模試で冊子に名前が載るくらい勉強もできた。みんな透は東大に行くんだと思っていたし、僕もそう思っていた。

「間違いなくお前は頭がいいよ。こんなふうにテスト前に悠々遊んでてもクラスでトップなんだからさ」

 僕がそう言うと、透は鼻で笑った。

「学校の勉強なんかゲームみたいなものだよ。麻雀より簡単だ。少しの努力さえ積めば誰にでもできるようになる」

 透は幾度となくそんなことを僕に言った。彼は本気でそんなふうに信じているようだった。少しの努力さえ積めば東大のA判定がもらえるし、すべての教科で学年で五本の指に入るくらいの点数を取れる。その少しの努力を積むのが難しいんだよ、僕たちのような凡人にとっては、と僕は思った。

「でもみんながみんな東大に受かるわけじゃない」
「もちろん。出願しなきゃ受からない」
「僕はそういうことを言ってるんじゃないよ」

 透は笑った。

「ジョークだよ。でも俺の見立てでは、お前はこっち側の人間だね」
「こっち側?」

 彼が何を言いたいのかよく分からなくて僕は聞き返した。僕は東大なんか目指していないし、学校の成績も彼ほど良くはない。「都内にある」ということしか特徴がないような大学にかろうじて行けたら御の字というところだ。

「ああ。少なくとも救いようのないバカじゃない」
「あまり褒められているようには思えないけど」

 褒めてるさ、と透は言って肩をすくめた。

「この世界は救いようのないバカばかりだからな。頭がついてるのかわからないような連中しかいないんだ。ひどい世の中だよ」


 今度は僕が肩をすくめる番だった。透には若干厭世的でシニカルなところがあった。透が一体僕のどこを見込んで彼らと区別しているのか分からなかったが、僕は特に反論しなかった。透がそう思っているならそれでいいさ、と僕は思った。

 僕たちはそういうことを話しながら、しばらく麻雀を打った。その日は透のガールフレンドが僕たちに付き合ってくれた。彼女は僕たちと麻雀なんかしていて楽しいのだろうかと僕はいつも疑問だった。もしかしたら僕のことを邪魔に思っているかもしれない。僕がいなければ麻雀なんかせずに二人で思う存分イチャつけるものだろう。僕は少し彼女に申し訳ない気がした。でも案外透といれば何でも楽しいのかもしれない。誰かと付き合ったことのない僕には、そういう気持ちはいまいちよく分からなかった。

 四半荘やって、透が二回トップを取り、残りの二回は彼女が取った。僕はずっと二着と三着だった。まあ仕方ないさ、と僕は思った。そういう日もある。透のガールフレンドが門限があるとかで六時に帰ってしまうと、卓が割れた僕たちは何もやることがなくなってしまった。テスト勉強をすべきなのは分かっていたが、帰って机に向かう気持ちにもなれなかったのでだらだらと喋っていた。

 透は窓を開け、スピーカーの電源を入れた。夏の夜の湿った匂いがした。透はよくクラシックを聞いた。僕はそういった音楽には疎いので、彼が何の曲を聞いているのかさっぱり分からなかった。

「彼女と別れようと思う」

 透はいきなりそう言った。僕は驚いて牌を弄ぶのをやめた。

「……どうして?」

 僕は透とはもちろん、彼女ともそこそこ仲が良かったので、彼らの関係がうまく行っていることは知っていた。先週の日曜は付き合って一年目の記念日で、二人で梅田までオーケストラのコンサートを聴きに行ったという話も聞いた。透が誘ってくれたのよ、と彼女は嬉しそうに話していた。

「いい子じゃないか。いつも門限ギリギリまで僕たちに付き合ってくれる」
「彼女が悪いわけじゃないんだ」

 透はそう言ったあとしばらく黙っていた。いつも直截的な言葉ばかり使う彼にしては珍しいことだった。

「いずれ俺たちは別れることになる。なら早いほうがいい」

 透は卒業後のことを言っているんだと思った。確かに彼女は彼ほどではなかったが、それでも名の知れた大学に行けるくらいには勉強ができたし、東京の私大を志望校にしていた。

「分からないな。彼女も東京の大学に行くだろう。多少離れていたって会うことはできる。東京はこことはわけが違うんだ」
「……俺は東大には行かない。あれは全部嘘だ」

 僕は透を見た。彼は真剣な表情をしていて、冗談を言っているようには見えなかった。

「じゃあどこに行くんだ?」

 僕が尋ねると、透は窓の外に目をやった。

「どこにも行かないさ」

 僕はため息をついた。透が地元の大学に行くのはありえないような気がした。じゃあ本当にどこに行くんだろう、と僕は思った。まるで頓知話だ。

「彼女にはどう言うつもりなんだ? そんなこと言っても彼女は納得しないぜ」

 僕が言うと、彼は仕方なさそうに小さく息を吐いた。

「別に俺から申し込んだわけじゃないから、適当な理由をつければ別れられると思う。面倒なことをしたよ、まったく」

 透はそう言った。まるで携帯電話の解約手続きのことを話しているみたいだった。そこにはロマンスの影のようなものは感じられなかった。

 お前が別れたいなら好きにすればいいさ、彼女は悲しむだろうけど、と僕は言った。透と彼女は似合いのカップルだと思っていたので正直に言えば残念だったが、彼らの関係に僕から言えるようなことは特になかった。

「ああ。お前にも少なからず迷惑がかかるだろうから、断っておこうと思ったんだ」

「それなら構わないよ。今度は僕がガールフレンドを見つけてきて麻雀を覚えてもらうさ」

 透は笑った。

「まずはそのユーモアのセンスを直すところから始めないとな」

 僕たちはその後も、ほとんど受験シーズンの直前まで、何度も麻雀をした。残念ながら透のガールフレンドはその日が最後だったし、僕も女の子と仲良くなって麻雀を覚えてもらうことはできなかった。それでもクラスメイトを適当に引っ張ってきて遊ぶのも悪くなかった。

 高校三年生の冬休みに、何の前触れもなく、透は首を吊って死んだ。大学の一次試験が二週間後に迫っている日のことだった。僕はそれを透の母親から直接聞いた。「受験前の大事な時期だから」という心温まる理由で、彼の死はほとんど誰にも知らされていなかった。

 僕は彼が死んだ後もそれまでと変わらず、学校に行って黙々と勉強をした。透を除けば、僕には話し相手になるような友だちは一人もいなかった。僕は高校生活の残り二ヶ月ほどを一人で過ごした。それでも構わなかった。どうせすぐにこの街からいなくなるのだ。

 高校を卒業した後、僕は東京の大学に進学した。そして吉祥寺の駅から遠いところにある、いつも雨の匂いがするとんでもなく狭くて安い学生寮の部屋で一人暮らしを始めた。やっと頭のおかしな高校から出られたというのに、僕は大学生活を楽しもうという気分にはなれなかった。僕はサークルにも入らなかったし、授業にもほとんど出なかった。アルバイトも生活に必要な分しかしなかった。

 それ以外の時間、僕は部屋のベッドに寝転がって天井を眺めていた。時々透のことを考えた。それだけで時間はあっという間に過ぎていった。狭い部屋に息苦しくなると、僕は公園や川沿いに歩きに行って、そこで何時間もつぶした。

 透が死んでから、僕は死をすぐ近くに感じるようになった。何をしていても死はかげのように僕にぴったりとついてきた。東京行きののぞみに乗っているときも、バイト先からの帰りのバスに乗っているときも、スーパーでカラスのエサみたいな食事を買っているときも。お前にだってその境界線を踏み越えることは簡単にできるのだ、とそれは僕に語りかけてきた。そうだ、と僕は思った。じゃあなんで生きているんだ?

 僕はそんなふうにしてそこに二年間住んだ。大学三年生の春に、きちんとしなくては、とふと思った。ちょうど隣人や上階の騒音に耐えられなくなっていたので、僕は今のアパートに引っ越すことにした。今度はわりにまともな広さで、駅からも比較的近い場所だった。大学からは遠くなったが、もともと毎日行くようなものでもないのでまあいいだろうと思った。

 僕は引越し先で新しいアルバイトを見つけ、きちんと大学に通い、空いた時間はカフェで本を読んだ。礼奈と出会ったのはちょうどその時期だ。まだ彼女はうまく歩くことができなくて車椅子に乗っていた。彼女は僕が店にいるとやってきて、話し相手になってくれた。おじさんに頼まれて、僕は何度か彼女のリハビリに付き合ったりもした。大学生の後ろの二年間は、比較的まともな──少なくとも最初の二年よりずいぶんマシな生活を送った。

 けれど、やはり透の死はいつまでも僕のそばにつきまとっていた。それは時折深い虚無として僕の心の中を埋め尽くした。結局僕は生きていくことにしたのだろうか、と僕は自分に問いかけた。答えは何も返ってこなかった。

 僕は春にはきちんと単位を揃え、大学を卒業した。就職はしなかった。まあこんなものだろうと僕は思った。そしてすべてが嫌になってきたのでアルバイトを辞めて、しばらくは何もしないことにした。


後編:https://note.com/seiseki/n/nfe85c9f3d57c

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