見出し画像

スマホに苦戦する祖母vs何もしない祖父

最近祖母のミッちゃんの記憶が危うい。
今朝の食卓にて
ミッちゃん「今日の予定は?」
私「学校行って書類出して、ご飯食べて、夜にバスで京都に行くよ。」
ミッちゃん「そうなの。。それで今日の予定は?」
という様に前後数分間の記憶が消えてしまうのだ。
いわゆるファインディングニモのドリー現象である。
だが、ミッちゃんの凄いところは頑張ってスマホを使って孫たちと連絡を取ろうとするところだ。
情報を送信することや、行の変換など苦戦することはあるものの、テクノロジーに対して親和的な態度をとっている。
性格も温厚で優しく、あまり怒ってるところを見たことがない。

一方で、祖父のまさしは新しいものを全て拒絶する。例えば銭湯好きの友達がうちに泊まりにきた時に:
友人「(私に対して)ここの銭湯行こうよ!」
私「いいね21時ぐらいに行く?」
まさし「何でそんな面倒なことをするの、家のお風呂でいいじゃない」
この様に、まさし爺は生活に些細な変化が起きると非常に不快に感じるのだ。
彼の1日の予定をまとめると
朝テレビを見る、昼テレビを見る、夜テレビを見る。とテレビしか見ていない。
さらに、スマホを使っていないため遠方の家族たちとは連絡が取れないのだ。

そこで今朝そんな老夫婦が孫の行動確認をする際に衝突した。
私の妹が東京を訪れることになったので、生活に些細な変化が起こることを察知したまさし爺は妹の動向を確認しようと思ったのだ。
だが、自分では確認できないため。
まさし「ちょっと孫に連絡していつ来るか教えてくれる?」
ミッちゃん「いいわよ」
スマホにゆっくりと文字を打ち込むミッちゃん
まさし「最近物覚えが悪いから、スマホで情報を貰ってもちゃんと伝わらないだろ」
この一言が余計だった
普段温厚なミッちゃんが
「あんた自分では何もしないくせに、文句はいっぱい言うよね!」とキレたのだ
爽快だった。心の中で「行け!言ったれミッちゃん」と唱えた
そこから議論がまさし爺vsミッちゃんと援護射撃をする私になってしまい、数分後に祖父は黙り込んで拗ねてしまった。

なぜ人は変化を嫌うのだろうか。
それは普段自分が築き上げてきた心地い安寧が崩れるからでは?普段しなくてもいい思考を強いられるからなのでは?
ルーティーンや習慣を築くのは、なるべく思考をしないためであり、結果として安定した生活が実現する。
だが、時間は無情にも経過し、変化していく。人は歳をとり、日に日に出来ることや出来なくなることが増えていく。
自分が心地いと感じてる生活はきっと誰かの苦労や努力の上にあるのだということを知らなければならない。
変化を受け入れることは恐ろしいことだ、
だが、変化を恐れて思考を停止させてしまうのはもっと恐ろしいことなのではないだろうか。
人はなぜ変化を恐れるのかぜひ考えてみてほしい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?