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寮生活における「先輩」の意義とは

我々は「先輩」にどのような理想を抱くのだろうか。
学校、部活、職場、人生の様々な場面において「先輩」が登場するだろう。
だがその人たちをなぜ先輩と呼ぶのだろうか?
年齢が上だから?自分より何かの事象において経験があるから?それとも優れた能力を持っているから?
今回は私が大学の寮生活において感じた先輩の意義について考えてみたいと思う。

お酒を先輩たちと優雅に嗜む
バーみたいな照明がポイント

そもそも私が在籍したインターナショナルスクールでは先輩という概念は存在していなかった。上の学年(higher graders)と呼ぶことはあったが、特有の概念で彼らを呼ぶことはなかった。
ではなぜ、日本では先輩という概念が浸透しているのだろうか。
最近は時代が移り変わる中で「無条件の上下関係」や「年齢が上だからえらい」、といった漠然とした社会規範が懸念されているように感じる。
だが、個人的に先輩という概念は自分が学ぶ上で極めて大切だと思う。
例えば、私は寮生活で焦がしたフライパンの焦げをとる方法を教わった。油を敷かずに炒めた焼きそばは、テフロン加工を貫通し、なべ底にへばりついていた。困っていた私を見かねて先輩がお酢と水を鍋の中で沸騰させ、放置してみると、みるみる乾ききった麺たちが剝がれていった。
このように、先輩には先人の知恵を有していることが多い。寮生活という分野では私より遥かに知恵があった。

寮の前で一緒に野宿した先輩
意味不明である

我々は生きる上で常に「生き方」を学んでいるのではないだろうか。授業の履修に困ったとき、休日に退屈を感じたとき、難しい問題に出会ったとき、常に何かしらの問題を乗り越える力を試されている。
では、それらを解決する方法は一体どこで学べばいいのだろうか。教科書が販売されていれば楽なのだが、残念ながらAmazonで『寮生活を生き抜くために』というベストセラーは販売されていなかった。
だからこそ、自分たちが生き抜いた方法を「先輩」が道の一つとして提示するべきなのではないか。
初めての実家離れであったり、東京での生活であったり、自炊であったり、寮生活は冒険と苦難で満ち溢れる新たな人生の物語である。その苦難を乗り越えるのを共に手伝ってくれた人たちを私は「先輩」と呼んできた。そして将来私も誰かの物語において「先輩」になってみたいと切実に願うし、行動で示したい。自分が焦がしたものを剥がしてくれたように、誰かについた苦難を一緒に乗り越えたい。
寮生活という終わらない物語に新たなシーズンが始まるように、自分が生きた記を誰かの記憶に残していく。それこそが「先輩」であることの意義なのかもしれない。

奢りジャンケンで必ず負けてくれる優しい先輩
不本意そう

この先、君たちがどう生きるかに正解はない、だが自分にとっての正解を誰かに示してほしい、それこそが終わりなき物語を続けるための先輩としての役目なのだから。

私からは以上です。


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