逃げてもいいと世間は言うけれど、逃げることができればどんなに楽か。

高校1年生,8月31日の事。
「こんなことをするために、高校に入ったんじゃない!!!」と泣きながらミシンと格闘していた。
というのも、私は普通科ではなく被服や食品、保育を学ぶ科に入学していた。私は食品コースだけを勉強できるかと思っていたら1年間はすべてのコースをまんべんなく勉強するカリキュラムだった。これが地獄だった。

中学生の頃、そこそこ勉強はできた。先生からも市内で唯一普通科のある進学校の受験を勧められたが、私をいじめてくる子もその高校を受験するという。田舎の学校は選べないのだ。A高校がだめならB高校の普通科に。なんてことはできない。
また、いじめられるのが怖くて進学校は受けなかった。
それに親は勉強することをあまりよく思わない人だ。それよりも「家の手伝いをし、障害を持った妹の面倒をみる長女。」という肩書の方が女性らしくて良いと常々口にしていた。期待に添うことが何よりも素晴らしいことだと信じていた私は、家庭科を極めることが一番だと思っていたので自ら希望してこの高校を選んだ。

入学後、自分の不器用さを思い知らされたのが被服の授業だった。わかっていてもきれいに縫えない。焦ってミシンが空回りする。ボビンに糸もきれいに巻けない。先生から合格がもらえるまでは、完成しても解き直し。何度も何度も解きなおして、夏が来る頃には課題のハーフパンツの型紙はまち針の痕と、チャコペンのピンク色でぐちゃぐちゃになっていた。
そのぐちゃぐちゃ具合を見るだけでどうしてこんなに上手くなれないんだろう。どうしてこんなことしているんだろう。どうして、どうして。。。
気付いたら涙が出ていた。夏休みまでに合格が取れない生徒はハーフパンツを一枚、九月一日に提出するように。プリントの下に書かれていた。
案の定、わたしは合格できなかった。そんな自分と向き合うのが恐くて、手を付けなかったら8月31日の夜になっていた。

そして冒頭に戻る。

泣きながら、何度も何度も縫っては解く作業を繰り返すうちにだんだん、
「なんでこんなことしてるんだろう。」
もし普通科に入っていたら
「こんなことしなくて良かったのに」
もしあいつがいなければ、もし親があなたは大学を目指して良いのよと言ってくれれば
「わたしはあの進学校を目指したのに」
もし、もし、もし、、、と段々悔しさが怒りに変わっていった。
それでも、意地で何とか作り上げた。
この経験は自分に打ち勝った証だ。そう意気揚々と提出したが次の授業で解く羽目になった。私の証はなくなった。

授業中に泣いたのはこの1回だけだったと思う。被服製作の授業は時間との闘いなので、誰かが泣いていようが、怒ろうが、しゃべろうが誰も相手をしない。そういうシビアな時間だった。

被服の授業は高校1年生の時のみでその後選択はもちろんしなかったが、担当教諭からの通知表にこう書いてあった。

「あなたは泣きながら、取り組んでいましたね。正直、この一年持つだろうかと思っていましたがよく頑張りました。」

嬉しかった、という感情よりもやっと終わったという脱力感の方が大きかった。

大人になった今、あの時ほど自分と戦ったことはないと思う。
親の言うことがすべてだった、10代の自分に言えることは「今が一番つらい時期」ということだ。逃げることが難しいから、向き合うしかない。本当に辛い。やりたいことも出てくるし、色んな情報も入って来るようになる。うらやましいと思っていても、お金を稼ぐ方法は限られている。自由になりたい。それでも、お母さんやお父さん家族に認めてほしい。

いつこの葛藤から抜け出せるかは、わからないけど
それは新しい人と出会った時だとわたしは思う。ネットでもリアルでも。

逃げてもいいと世間は言うけれど、逃げることができればどんなに楽か。

この葛藤をわかってくれる友人と出会えたことで、自分の悩みが悩んで良いことなんだと安心できた気がした。

私の悩みはふんわりいうと「親が期待する生き方ができなかったこと」だ。
この悩みを言語化するのに随分時間がかかった。
傍から見るとこんな一言?かもしれないけれど、この一言には私の人生が詰まっている。

人の悩みは、軽く扱うものじゃないと思うから
いつか悩みなんて解決するよ。なんてことは言えないし。
こうしたら幸せになれるよ。という助言もできないけれど、

どうにか、こうにか今を生きていこう。

二度とハーフパンツは作らないけどね。

#8月31日の夜に

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?