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『梅見散歩』

公園の駐車場から、もう、匂いがした。
園内には花が咲いていた。遠目にも、おそらく梅だろうとわかった。
私は梅の花目当てで公園までバイクで走ってきた。咲いてるかどうか半信半疑ではあったけれど。
白梅は、まだ蕾だった。いっぺんにぜんぶの梅が咲いてしまわないような、品種の選択と工夫がされているのだろう。

私は、平日の昼に働き盛りの中年男が散歩しているのは、奇妙な事であるという世間の偏見を完全に理解している中年男だ。なので、蝶が舞うような軽やかな足取りと、梅の香りにうっとりとしたさわやかな顔をふりまいて『安心感』を見せる事も忘れないようにしている。なぜかというと、残念ながらどんな時代であろうと、中年男のひとり散歩には一定の注意が向けられるのが常だからだ。私は、他の散歩者の警戒心を解きながら歩くようにしている。「ほら、見てくださって、私は安全な中年男ですわよ」、私はそんな心意気でいつも散歩をしている。

それを、忘れてしまうときがある。そんなときはポケットから手をだそう。そして、手を後ろに組むのだ。木を眺めて立ち止まって「ふうん」と頷くのもいい。早歩きで距離を詰めてはいけない。私の他は老夫婦と犬を散歩するご婦人方だけだ。安全な中年男だということを認識していただこう。ストレッチなんかしてみたりして。スマホで梅の写真なんか撮っちゃたりして。そんな時でも絶対に子どもを写してはなりません。少しでも見切れようものなら、その場で写真を削除するようにしています。

「私は痴漢ではありません。まして、私は赤軍でもありません。逃走犯ではありません。爆弾魔ではありません。ただの人見知りの半病人で、丸顔の安心安全な中年男ですよ」、そんな態度で景色に溶け込むようにしている。すこし、中年男側が気をつかえばいいのだ。中年男が善良な中年男だと認識してもらうにはそれなりの配慮が必要なのだ。偏見であろうとなかろうと、それが現実だ。全世界の中年男の過去の贖罪を現代の善良な中年男の私が払っているようなものだが、仕方がない。

ひょっとしたら、セーターを着用すれば『お父さん感』がでるのかもしれない。しかし、バイク乗りの私にセーターはない。革ジャンかモッズコートで散歩しなければならない。それが宿命であると思っている。これからもそうだ。今日は暖かな日差しにも恵まれた、なかなかの梅見散歩日和だった。


帰りに歯磨き粉と化粧水を買った。
中年男の私でも化粧水は必要なのだ。それほど群馬の環境は悪い。スキンケアを怠れば顔はカピカピになってしまうのだ。
そして、なぜか、乳液に比べて化粧水が終わるのが早い。乳液はまだたっぷり残っている。化粧水と乳液が1:1で消費されていない。乳液をもっとたっぷりつけないといけないのだが、それが出来なくてもどかしい。
化粧水は躊躇なくバシャバシャ顔にかける事が出来る。乳液はそのとろみと色のせいか、躊躇なく顔にかける事が出来ない。私には思い切りが足りない。乳液って目に染みそうで、すこし怖くないですか?。私は怖い。

もしかして、化粧水と乳液の使用量は1:1ではないのかも知れない。
私は、昨年末からの乳液初心者なので加減がよくわからない。そもそも乳液の意味もわかっていない。なんとなく(化粧水だと思い)手にとってしまった。乳液は、化粧水の足りない効能を補完しているのだろうが、それがなにかを私は知らない。老眼なので、もう、使用上の注意は私には届かない。春までに使いきれるだろうか。『美』の世界は深い。『美』の沼にはまらないように気をつけよう。


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