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『宮沢賢治は、ハリウッドザコケンジなのか』

うれしい事に人間は多面的に出来ている。
どこに光りを当てるかで自ずとその者の実体は変様する。また、光りの当たる面を見るか、その先に伸びる長い陰を見るか、それでも、だいぶ印象は変わってくる。

私の住む土地には冬になると強風が吹く。それを『赤城おろし』と言う。名前がつくほどの風が吹く土地で育った者は、『赤城おろし』を体感しているから、風ごときにたいそうな名前がつく事を、大袈裟ではないと知っているのだ。

宮沢賢治、作。『風の又三郎』のあの一説、「どっどど どどうど どどうど どどう」も、わからないではないなと、私は思う。
「ひゅうるりぃ」ではとても済まされない風が吹くのはたしかなのだ。
町中に体当たりするような風を私は知っている。だから、わからないではないなと、宮沢賢治の肩を持つことができる。
まして、明治時代の昔の家屋なら尚更だろう。森が林が草原が川が町が多面的に集合した風の「鳴り」が、「どっどど どどうど どどうど どどう」だったのだ。
これが宮沢賢治の心象スケッチの源泉なのだろう。

少々飛躍して、多面的に見よう。
日の目を浴びることに成功した、元地下芸人『ハリウッドザコシショウ』
一方は東北の裕福な家に生まれた。日の目を見る事なく病死した。地下文人。『ハリウッドザコケンジ』

憚りながらも私は妄想している。
明治の見世物小屋で半裸の『ハリウッドザコケンジ』が、朗々と詩歌、童話を朗読するその姿を。『銀河鉄道の夜』『牧歌』『雨ニモマケズ』を。
「普通の風。ひゅうるりぃ」
「誇張した風。どっどど どどうど どどうど どどう。ゴーシュ!」
そうして、(ケンジ扮する)ゴーシュはセロを弾き始めたのです。


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