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日記らしいことしてみた。

アカウント名に「日記」といいながらほぼ日記らしいことはしていないな。そう感じたので、今回は真面目に日記を書く。(どうせ1回限り)
私は日記を毎日書くことにしているから、そこまで筆が滞ることもないのだが、なにせ偉ぶった、文豪気取りで書いてしまうものだから、少々人に見せにくい。語彙があるほうでもないから一層見苦しい。それをネットの海に晒すのだから心も苦しいものだ。


自動車学校

今日は相変わらず自動車学校で1日の大半を過ごした。夏休みもあと二十日あまりというので、免許を手にするまで至るのかとひやひやしていたが、カンヅメ状態による怒涛の追い上げによってそれは杞憂となって消えた。何より捧げられたのは私の精神であるが。

しかし空き時間は1時間単位でできてしまうものだからのびのびと読書に集中できたのは良かった。学校の周囲に本当に何もないことも不幸ではなかったらしい。今日も衒学者の道を着々と進んでいる。

話題の処理水問題

近頃のニュースに原発処理水に対する国内、国外の反応が取り上げられている。私は特に問題にもならなかろうと思っていたのだが、割と大きい問題になっていたようで少々驚いた。

処理水を流すことよりも、「核」という言葉にみな反応しているらしい。疑問や反対の声を挙げていたSNSユーザーやメディアだったが、中国からの迷惑電話が話題に挙がった途端、中国に反発し、処理水を擁護する声が目に付くようになった。反論したり擁護したりテンテコマイなところを見ると、苦笑いと同時に眩暈もしてくるものである。

処理水放流に関しては賛成である。汚染の観点では好ましくなかろうが、害の生まない処置などそうそうないだろうし、いい塩梅で折り合いをつける他ないだろうと思う。

技術進歩を待つしかない反面、待ったのちに地球がどのようになっているかがわからないのを考えると、考えすぎて沼にはまった哲学のように、頭が痛くなる。

ゴーストライターの兄

これは昨日のことだが、弟にゴーストライターを依頼された。彼は今年高校受験の中学三年生。勉強に勤しむ姿は受験生だった私よりいっそう厳かに見えるのだが、その彼が学校祭の意見文発表を頼まれてしまったそうだ。

「生徒会の仕事と勉強で忙しいなかで作文発表の準備は取れん!」
そう一人で嘆いていた。成績優秀で頼られやすい性格が災いしたようである。

嘆いていたその時、ふと顔を見上げ、しめたといった様子でこちらに近づいてきた。そうして彼の裏脚本家となった。

しかし意見文というにも、去年書いたものを改めて書き直す程度であるから、そこまで負担の大きくないものだろうと思っていたのだが、彼が思っていたのは微調整などでは到底なかった。

彼が去年書いた意見文は「学ぶことの大切さ」である。

「将来使わないだろう思われている知識は、世界に対する認識や解像度を上げるために重要で、たくさん学んでいこう」というまとめで、テーマも良く、文章の不自然なところもなく、具体例で「マーガリン」を紹介しているので引きもいい。(note記事のネタにしよう)

では弟は何が不満なのかと問えば、彼曰く「学校教育を推進しているようにとらえられるのは癪」らしい。

正直、すごくよく共感した。私が彼の意見文で感じたニュアンスはまさにそれで、構成を見直しつつ、直接学校教育を批判せずに、知識を身に着けることの大切さを伝えたいというのだ。

これがひどく難しい。彼の意見文の芯は必ず「疎ましかったり未意味な学び」という認識に反論しなければならない。

しかし、それが「学校の勉強を重要視しよう!」と認識されてしまうことは十分あり得る。テーマも抽象的かつ深い。どのような面から眺めるか、どこに着地するかも悩ましい。

しかも、若者の間で学ぶことへの諦観が流行っている中のテーマであるから、啓蒙的な内容になってしまうため、発表後の反感も想定しなければならない。

彼の思想に沿った文章を編集することができるのか。未来の自分に期待、丸投げをして寝るとする。

おわり

北海道に帰ってきてから刺激も多く受けていて、趣味の創作にも進歩が見えている。人間、刺激は出来るだけ摂っておくものだと思う。

せめて見づらくならないように区切ってみた。自分の日記の延長であるから、思ったことを素直に、身勝手にスラスラ書けたし、日記をつけるついでにできるので、長続きしそうだ。できればまた(モチベがないときは)書いてみたい。

皆さんも刺激のある夏を。

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