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#9 ホテル暮らしの日記 :自然観

私は自然が好きである。

が、あまりそういう表現はしたくない。
なぜかというと、動植物や四季への愛情は人として当然持っていなければならない基本的な機能のように感じられるので、それをいちいち取り立てて外に発信すると、なんだか嘘のように感じられてしまうからだ。
例えば、我々は肺で呼吸をしているが、それをいちいち「私は肺で呼吸ができる」なんて周りに宣言するのは鬱陶しいだろうといった感じである。

それで、なぜ私がそういった動植物や四季への愛情をここまで素直に感じられるようになったかというのを考えてみると、やはりそれは両親の教育の賜物に違いないと思う。

父は造園業をしていて、野生的な人だ。
もっと言えば、筋骨隆々の元ボクサーで、パワフルで直感的な人である。
私は父から、自然の実践的な知識を学んだ、川での遊びや虫の捕まえ方、山の歩き方から枝葉を使って秘密基地を作る方法など、何が危険で、何が安全かということを身をもって教えてくれた人である。父との思い出でよく覚えていることがある。父は先に述べたように造園業をする人なので、仕事中によく虫と遭遇するらしく、時折父が吸っていたタバコの空き箱に甲虫の類をぎゅうぎゅうに詰めて持って帰ってくるのだ。私は夏になると兄と一緒に(姉はそれほど関心を持たなかったように記憶している)父の帰りを待ち、持ち帰ってくるタバコの箱に入ったノコギリクワガタやコクワガタを飼育していた。

母は専業主婦で、文化的な人だ。
繊細な心を持っていて、みだりな人付き合いを嫌い、秋の紅葉を見て涙を流すような情緒的な人である。
母はインドアな人なので実践的な知識こそ持っていなかったが、自然の慈しみ方を教えてくれた。最も覚えているのは私が小学一年生の頃のことで、その日は確か祝日だか土日で、よく晴れた春の日だった。天気予報を見てその日が一日晴れだというので散歩に連れられて、近くの大きな公園を2人でてくてくと歩いた。アベリアが茂っているところがあって、そこの間を縫って黄色いバラ科の植物が顔を覗かせていた。それを可愛がったり、そこに飛んできたスズメガの挙動を私に見せたりして、動植物の愛らしさやいじらしさを静かに教えてくれたのだ。

このように、私は父と母から自然に関する多くのことを学んだ、学んだというのは化学や生物学のように記号や数式や名前で記憶することをではなく、五感を通して世界を察知することを学んだのである。私がこの能力を獲得できたのは実にありがたいことだと思っている。これがあると世界に色がつく。もう1段階深いところで自然に触れることができるのだ。友人とこの類の話をすることがあり共感を得ることも多いが(キャンプは楽しい・自然の中に行くと気持ちがいいなど)、おそらく私の感じているものと、彼らの感じているものは種類が違うのではないかと思っている。

少なくとも、自然に囲まれて「あぁ〜!気持ちいい!」といった感覚ではないのだ。もちろんそれもあるが、私が自然というものに触れて感じるあの情動は、もっとノスタルジアに近い。高校時代の友人との会話を思い出すのと非常に似ている。涙が出そうになるのだ。だからと言って、自分の昔の経験が呼び起こされてそれを懐かしんでいるというのも違う。
もっと根源的なもののように感じられる。それこそ脳みその根っこの方や、DNAに刻み込まれた「生物」としての懐かしみのようなものだ。母なる大地とはよくいったもので、帰ってきたという感じがする。だからといって山に住みたいとは思わないが、とにかく帰ってきたという感じがする。

私はこういった感覚を、もっと子供に教えてあげる方が良いのではないかと思っている。TikTokなんかで流れてくる動画を見ると、最近の子供はどうも言語の発達が早いように感じられる。おそらくSNSの発達で言葉に頻繁に接触しすぎているからだと思うが、言い換えると早い段階で人間になりすぎている。もっと動物の時間が長くていいんじゃないか。

なぜかというと言語は言語であって、体験ではなく、真実ではない。「モグラ」はモグラじゃないし、「カブトムシ」はカブトムシじゃない。論理的に正しいかとか、言語中枢の発達なんていうのはもっと後回しでいい。
高校時代バカな単語しか知らなかったやつが、MARCHレベルの大学に入って急に語彙がそれらしくなったのを知っているので、語彙力なんていうのは環境を整えてやれば後でいくらでも調整が効くはずだろうと私は考えている。会社で働くようになって話し方が変わるというのはよくある話だろう。

それに、論理的に正しいというのは時々間違いがある。
例えば「人生は苦しいことがたくさんある」「死ねば苦しみから解放される」「苦しみを取り除くことはいいことだ」のように、個々を見れば確かにそうかと思われることも、それを組み合わせると「だから人を殺して苦しみから解放することはいいことだ」ということになりかねない。こんなのは間違いだと感覚的にわかるはずだが、言葉が感覚よりも前に来てしまうとこういう間違いを生む。

近年SDGsとか生物多様性とかいうのが取り上げられているが、そんなものは結局「名前」を記憶しているにすぎない、本当に大切なのは体験と理解である。それを蔑ろにして「こういう問題が起きてるからこう解決しよう」といった感じで、人間が作った四角い箱の中から「SDGs」とか「生物多様性」とかいったって、なんの解決にもなりゃしない。

私は憤りを感じる。
怒鳴りもしないし、暴力もしないが、それでも静かに憤りを感じる。

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