#7 ホテル暮らしの日記 :「こそこそ」

実家に帰ってきている。

食費がかさんでしまい、貯金が減ってきているからだ。

家に戻って倹約に励もうとコソコソ生きているのだが、友人からの誘いは断りがたく、ついつい飲みに行ってしまう。結果的に倹約はあまりできていないが仕方がない。来月の困窮は甘んじて受け入れるつもりである。

なんだか去年からの一連の流れを俯瞰してみると、私は何かから逃げるかのように、コソコソと動き回っている。その「何か」は次のような言葉で表現できそうだ、「常識」「責任」「束縛」「執着」「恥」「迎合」その他もろもろ、この類の言葉である。

自分の動きを制限するこれらの結束バンドを弾き飛ばすのは「孤独」であり、かつての私にはこれが状況を打開する唯一の方法のように見えたし、今でもそう思っている。

このまま東京にいれば、今月と同じように来月もまたその次の月も、気の合う友人と酒を飲んで、翌日には覚えてさえいない下らない会話に花を咲かせることができる。私は「友人はいらない派」ではないので、こういった時間を心の底から愛している。

それなのに、私はまたコソコソと重たいキャリーバッグを引きずりながら、次の場所に向かう。なんの意味も目的もなく、ただ移動する。

そしてまたしばらく、ずっと1人で、生活していく。

私のこの稚拙な逃亡に、隠者のような教養深さが感じられるとは思わないが、しかし自由を堪能する立場という点においては、共通点を感じざるを得ない。

自由というのは、猛々しいようなイメージを以前は持ったが、近頃はもっといじけたもののように感じられてきた。

「宣戦布告」ではなく「抵抗」
「挑戦」ではなく「逃走」
「勝利」ではなく「不戦(敗or勝)?」

自分1人の力ではどうしようもないほど強い何かを前にして、それでも膝をついて許しを乞うことはできず、無様な自尊心を振りかざしながら、ウロウロ・オドオド逃げ惑い、世の中に少しだけ空いた「隙間」をみつけると、そこを安住の地として定着する。その安住の地が孤独であり自由なのではないかと、最近は思っている。

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