ヤバい女にタゲられて人生をめちゃくちゃにされそうになった結果、なぜか小説家になった話【第10話:なお、動機は別れ話のもつれとみられ】

その日は、なんとしてもマユミと別れると固い決意を持って話し合いに臨んだ。
いつものように自死をほのめかすかもしれないし、包丁を持ち出すかもしれない。僕の家族を傷つけると脅すかもしれない。それでも、なにをされても退くつもりはなかった。マユミから離れ、自分の人生を取り戻すつもりだった。

予想通り、マユミは別れを拒否し、怒ったり喚いたり泣きじゃくったりと、さまざまな感情表現を駆使して僕を引き留めようとした。
いつもなら根負けするところだが、ぜったいに折れるつもりはない。
薬を大量に飲んだ僕の髪の毛を鷲づかみにし、激しく揺さぶりながら僕を平手打ちした、あの表情と声を思い出した。
この女は悪魔だ。
懸命に同情を誘おうとしてくるが、すべては打算の結果であり、本物の人間的な感情など持ち合わせていない。人を操ろうとしているだけなのだ。
夜半に始まった話し合いは、窓の外が明るくなるまで続いた。覚悟はしていたものの、マユミに別れを承諾させるのは難しそうだった。
このままでは埒があかない。
ひと晩説得に費やしたのだからもういいだろう。あとは実力行使だ。

「もう話は終わり。帰るから」

僕は一方的に話を打ち切って立ち上がり、玄関の靴に爪先を突っ込んだ。
マユミが包丁を手にしたりしないか、背後に気を配りながら。

彼女は両手で顔を覆ってすすり泣いていた。
そんな女性を置いていくことに後ろ髪を引かれる思いがないわけではないが、ここで戻っては元も子もない。どうせ演技だ。すべては嘘だ。これまでの所業を思い返せば、彼女が反省するとも学習するとも思えなかった。仏心を覗かせたら最後、奴隷のような惨めな日々に逆戻りだ。
予想に反して、彼女が追いかけてくる気配はなかった。
僕は鍵を開け、部屋から出ようとした。
そのときだった。

「やっぱりやだ」

マユミの呟きが聞こえた直後、ドーン、と大きな音がして地面が揺れた。
大げさでなく、それほどの衝撃があった。
振り返ると、六畳のワンルームにマユミの姿はない。
その代わり、正面にある窓が大きく開け放たれ、カーテンが風に揺れていた。

一瞬、なにが起こったか理解できなかった。
だがほどなく、全身から血の気が引いた。
僕は靴を脱いで窓辺に駆け寄り、身を乗り出して外を見た。
マユミのアパートの裏手は、駐車場になっている。
その駐車場に、マユミがうつ伏せで倒れていた。
アパートの2階から飛び降りたのだ。
急激に視界が狭くなる感覚があった。

僕は慌てて外階段を駆けおりた。
そうしながら携帯電話で救急に通報しようとするが、『1』『1』『9』の数字が思い出せない。
それほど動転していた。
人生が終わったと思った。

救急に通報しながら、マユミに駆け寄る。
声をかけても肩を叩いても、ぴくりともしない。
駐車場は四方を集合住宅に囲まれており、物音に気づいた住人たちが、なにごとかとバルコニーからこちらを見下ろしていた。僕たちを見ながら、なにやら囁き合う姿が視界に入る。なにを話しているのだろう。僕のことを悪人だと思っているのだろうか。女性に暴力を振るい、アパートの窓から突き落としたクズ男と思っているのだろうか。
顔を見られたくなくて、視線を上げることができなかった。
救急車を待つ間、マユミの実家にも連絡を入れた。
やがて救急車が到着した。
救急車だけでなく、パトカーもやってきた。僕自身が警察に通報した記憶はないので、消防から通報がいったのだろう。
救急車には駆けつけたマユミの母親が同乗し、僕はパトカーの後部座席に乗せられて病院に向かった。

私服警官の二人組は一人がハンドルを握る運転役、もう一人は聴取役として、僕の隣に座っていた。
「なにがあったの」
「別れ話をしていたら、彼女が窓から飛び降りたんです」
「本当に?」
疑わしげな反応に肝が冷えた。
しかし僕が自らの潔白を証明すべく必死で事情を説明するうち、だんだん同情的になってきて、最後には「大変だったね」といたわりの言葉をかけてくれた。ぜったいに信じてもらえないと思っていたが、警察官だけあっていろんな現場に遭遇していろんな人間を見てきたのかもしれない。
救急車の中で意識を取り戻したマユミも(振り返ってみると、本当に意識を失っていたのか怪しいものだが)、自分で飛び降りたと説明してくれたようだった。もしもマユミが僕から突き落とされたと虚偽の説明をしたら、どうなっていたのだろう。

驚くほど大きな衝撃音がしたものの、結局マユミは打撲程度の軽傷だった。
精密検査を受けるマユミを病院に残し、僕はタクシーでマユミの実家のマンションに連れて行かれた。マユミの実家は、マユミのアパートから徒歩20分ほどの近所にある。
マユミの母親とは、それまでにも何度か顔を合わせていた。ライブハウス通いが趣味という人なのでマユミとは共通の話題もありそうなものだが、親子仲はそれほどよくなさそうだった。ただ絶縁というほどでもなく、マユミはたまに実家に顔を出していたし、母親がマユミのアパートを訪ねてくることもあった。ライブハウスで顔を合わせたこともある。
マユミのことを誰かに相談すると、決まって「先方の親御さんになんとかしてもらうしかない」と助言されていた。だからSOSを出したこともあったが、マユミの母親は冷淡だった。
「あんな子だから、なにがあってもしかたないと覚悟している」
と無責任な言葉をかけられたこともある。
いやいや、その「なにがあっても」の「なに」に立ち会うことになるのは僕なんですけど?
そうなる前に逃げたいから、助けてくれって言ってるんですけど??
成人した娘の行動の責任を取れというのは筋違いだし、家族もマユミに振り回されていただろうことは想像に難くないが、マユミの恐ろしさを理解しているぶん、もう少しサポートできなかったのかなとも思う。
でも無理か。恋人だろうと親族だろうと、まともにハンドリングできる相手ではない。

それがこの期に及んで、ようやく救いの手をさしのべてくれたかたちだ。
「あんなことがあったら、もう一緒にいられないでしょう。自分の家に帰りなさい」
やっと欲しかった言葉をもらうことができた。
こっそり帰って映画を観まくってはいたものの、大手を振って自宅アパートに帰ることができないまま、すでに一年近くが経過していた。
やっと帰れる。
ただ、素直に喜べるような心境でもない。ずっと放心したような感じだった。どこか現実感がなく、夢の中にいるかのような、ふわふわと地に足がつかないような。
自分の身に起こったことを客観的には理解しながらも、あまりのショックに現実を受け入れられないでいた。映画かドラマでも観ているような気分だった。
それが振る舞いや表情にも出ていたのかもしれない。
マユミの母親は言った。

「うちのベランダから見える桜、すごく綺麗なの。見てきたら?」

なんでいまそんなことを言うのだろうと、そのときは内心で首をひねった。
僕は勧められるがままに、ベランダに出た。
マユミの実家はマンションの四階だか五階だったので、桜の木々を見下ろすかたちだ。
上から見下ろす桜は、たしかに見事だった。
とても濃い、桃色だった。
綺麗だ。
そう思った瞬間、涙があふれた。
すとん、と地に足がついて、現実に戻ってきた感覚があった。

普通に付き合って普通に別れる。
それだけのために、なんでこんなことになるんだ。

田舎の息苦しさが嫌で、自由を求めて東京にやってきたのに。

好きなことをやって生きていければそれでいいと思っていたのに。

好きなことなんて、ぜんぜんできずに足踏みするばかりだった。
それどころか、たった一人の女性から逃れるために、ひたすらもがいていた。
明日自分が死ぬんじゃないかという恐怖に怯えていたし、自分が殺人者になるんじゃないかという恐怖にも怯えていた。

こんなことをするために、東京に来たんじゃない。

僕はいったい、なにをやってるんだ。

どこで間違った。

なんで――。

いろんな感情がないまぜになって、涙が止まらなかった。
涙が収まるまで、手すりに肘を載せて桜を見るふりをした。

その日、ようやく自宅アパートに帰ることが出来た。
もう携帯電話の呼び出しに怯える必要はない。
マユミと別れることができたのだ。
大変な思いをしたけど、すべて終わった。

そのときは、そう思っていた――。
(続く)

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