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あの日。

#2011年3月11日14時46分あなたはどこで何をしていましたか


その時。


川崎のヨドバシカメラの屋上の
フットサルコートで行われていた
サッカーの幼児クラスに参加している息子を
見ながら私はベンチでぼっとしていた。
睡眠不足で頭がクラクラしていたので
最初の揺れは目眩だとおもった。
しかし揺れはどんどん激しくなり
私はベンチから立ち上がって
コーチに「地震です!」と叫んだ。
動いていた子供達とコーチは最初気がついていなかったけど
私の声で止まると地震に気がつき思わずしゃがみこんだ。
子供、コーチ、保護者がコートの真ん中に集まり
揺れが収まるのを待った。


これやばいかもな


と思ったがなんとか揺れは収まり、屋上から
歩いて地上に戻ることに。
向かいにあったさいか屋という古い百貨店の窓ガラスが
パラパラと落下していくのを子供に見せないように
私たちは地上に降りた。


コーチの一人が実家が仙台ということで
真っ青な顔をしてるのでみんなで励まし
その日は解散。他の人は交通の回復を待つと話したが
私たちは歩いて大田区の家へ帰ることにした。


16キロ。
「長友が1試合で走る距離だ。長友になれる?」
「なれる。僕にもトーキョー魂がある」

おかげさまで広い道の途中、
トイレを解放してくれる店や
お茶を配って下さる店もあり
2時間半ほどで帰宅。


ありがとう長友。


思ったほど大変ではなかった。
余震はずっと続いていたので
どうしても風呂に入りたいという息子に
今日は勘弁してくれとシャワーにしてもらい
いつもなら閉める寝室のドアを全開にして
寝巻きではなくスポーツウエアを着て寝かせた。


私はしばらく眠れなくて
ラジオとネットをチェックしながら
美術館の休館情報をまとめていた。

旦那は帰宅難民になりその日は会社に泊まった。
そして、まだ父は元気だった。



7年前のこと。
遠い昔のような、昨日のことのような。


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2018年にこんな記録を残していました。

2011年の3月11日、帰宅の選択をしたのは後から考えるととても良い選択でした。結局その日は停電で交通は回復せず、結局5時間ほど足止めすることになったと後から聞きました。当時、私自身はテレビが本当に嫌い&怖いと感じていてずっとJ-waveを聴きながら過ごしていました。ちなみに上記に書いてある古い百貨店「さいか屋」はもう存在していません。


その後身内が大病をしたり、私が海外に転居したり、父が亡くなるなど色々な変化がありました。


そして世界がCOVID-19で激変する前に「もういけなくなる可能性もあるから」と母を説得して父の実家の墓がある会津若松に2019年に墓参りに行ったのですが子は今にして思えば好判断でした。写真は郡山駅で撮った新幹線。新幹線、かっこいいですよね。


2011年から色々なことが起きました。当時「なぜ逃げないの!小さなお子さんがいるのに!危ないのに!」と助言をして下さる方もいましたが老化が進んだ父とその面倒を見る母を置いて小さな子供を抱えて避難という選択肢は私にはありませんでした。「逃げない選択にもまた理由がある」が本当によくわかったこと、父親の墓が会津若松にあった関係で「Fukushima」という単語が福島をよく知らない人が使うことに対しての憤り、そして自分だってそんなに知ってるわけじゃないのに何をそんなに憤ってるのかわからない自分に対しての混乱などをずっと感じてきました。

そしてあの時一番感じたのは「人間は体力があった方がいい」。ぶっちゃけ持病があっても肥満があってもいいのでとにかく「体力をつける」。これが生き延びられるかどうかを分ける。ここでした。

その感覚はCOVID-19で確信に変わりました。とにかく体力はあった方がいい。


今でも時々歩いて帰って道を思い出します。あの時の息子の小さな手はもう私より大きくなり、身長も私を超えました。

今、自分が生きていることをもっと褒めて生きていきたい。っていうか生きてるだけで偉い。あなたも私も。だから生きよう。