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「スルーする」と「なかったことにする」は違う。


浦島太郎は日常に戻った後、どんな風に生きたんだろうか。混乱しっぱなしじゃなかったろうか。


アジアでは新型肺炎の感染状況が落ち着き、日常が戻ってきたという。しかし私はいまだに混乱している。私の住むマレーシアは少し前まで厳しめの行動制限をかましていた。外に出るのも怖かった。その時の状況はこちらに記録してるのでよかったどうぞ。


しかし、怖がってるだけではダメだった。状況はジェットコースターのように変化している。ついていくのが本当に大変だ。一時帰国なんて永遠にできないのかと思っていたが状況は常に動いている。その時の常識(Nomarl)がいつも動いている。浦島太郎のように先日までの世界がどんどん変わる。ついていけない。


私は現在日本に居住していない。家族の進学などの関係を考えると、後数年は居住しないだろう。そして、自分の母親がひとり暮らしなので頻繁に一時帰国をしていた。しかし、新型肺炎のせいで今年はとてもじゃないけど帰国できない。しかも私が好きなのは美術や芸術だ。美術や芸術は基本的に設定されてる「日常」から基本的に「ズレている」。


私自身はちょっと(いや、かなり)ズレてると思う。だからこそ人のズレには寛容でありたいと思っている。それはいわゆる「スルー」力と言っていいのだろうか。あああなたはそうなんですね。で一旦終了する能力。これを大事にしたいと個人的には思っている。


しかし最近私はますます混乱している。なぜなら「スルーする」と「なかったことにする」が混同されているように感じるからだ。自分が浦島太郎だったら毎日混乱してしまう。


「スルー」は起きた事実を認めてる。「なかったことにする」は(文字通り)起きた事実を認めていない。起きた事実を認めて対応することと、なかったことにするのは明らかに、違う。事例を上げてみよう。


この「スルーする」「なかったことにする」が自分も含めて混乱していないか?と感じるのが最近自分が感じる胸騒ぎの根源なんだと思う。


各国が国境について様々な見解を出している。おそらくだけど「出す前までの詰めの話し合い」は凄まじく大変なものであろう。そしてその見解の微妙なズレは、益々私を混乱させる。


国境開放において片方だけが表明してる場合というのはいわゆる「片思い」なのだろうか。でも表明まで出来てるということは「表明していい」という共通認識があるのか、それとも「表明されていないだけで実は別ルートがある」のか。


そこで考え込んでも益々混乱するだけだ。今は音楽に身を任せて地道に筋トレして有事に備えるしかない。片思いと言えば。