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Bear strikes back but I'm still aliveー20240123 飛び回ってる私が頑張ってる女性達に伝えたいこと


みんな頑張ってる。みんな頑張ってるよ。


皆に驚かれます。あなた、なんてスピードで動いてるの?って。
私は知ってるんです。動ける時しか人は動けないって。

確かにおかしいです。12月に関西、年末にカナダへ。そして1月に全身麻酔の手術。その約2週間後に東南アジアを飛び回りました。その後、青森に行って、母の入院のサポートを行います。その後にも東北や関西に行ったりする予定。


そうなんです。子宮全摘手術を受けた2週間後、私はシンガポールにいました。シンガポールでアートフェアをみて、友人の息子さんの結婚式に出て、KLでミーティングにいくつか参加してきました。

今回の訪星&訪馬では多くの人と久しぶりに直接お話をすることができました。そして皆様がとても前向きに活動されていることを教えて頂き本当に胸が熱くなりました。特に女性の活躍には本当に感激でした。
正直、もう私は東南アジアとの縁は薄くなっていくのかなって思っていたんですよ。今、私の日常では子供の留学先であるトロントと近くのニューヨーク、つまり北米東海岸のニュースをチェックすることが増えました。しかし、今回の東南アジア2カ国を回ってまだ私はこの土地にちゃんとご縁があるんだなって思うことができました。またまた東南アジアを訪れることになりそうです。

そして。


頑張ってる皆様の心身がとても疲れておられるということも伺いました。

私は自分のことを思い出します。
東南アジアに夫の仕事の都合で転居することになった時、私は乳がんの手術を終え放射線治療が開始した時でした。当時はすでに他界したK医師の謎めいた癌に関する治療を進める本が流行ったりしていました。今以上に乳がん、というか癌になったいうことを公表するのはリスクの方が多かった時代です。なのでとてもじゃないけど公表なんてできない。なのでひたすら黙っていました。しかも夫の会社では転勤に関しても1ヶ月までまでは公表禁止だったので転勤そのものも内密でした。

そして東南アジアに在住してる際、パンデミックもあったので私が癌であることがビザ更新のネガティブ情報になったらどうしようって心配もありました。(もちろん道義的にその様なことは起こらないはずなのですが、パンデミック当時は正直どんな展開になるかわからない、という状況でした。多くの差別も目にしましたのでその心配はあながち取り越し苦労ではなかったと思います)。だから自分のことは話さなかったですし、個別に健康に過度に気をつけていました。側から見たら得体の知れない人ポジションでしたね。とにかく物事を隠しながら進めるしかなかった。そういう時代でした。
自分が癌サバイバーであることを公表できる様になったのは自分の本帰国が決まってからでした。



本帰国してから私は自分の病気の歴史、そして治療に関して自分から積極的に話す様にしています。今回は年始に入院したこと、そして手術して約2週間で外国行ってることも。なぜならネタとして面白いじゃん!というのと「今の時代、健康を意識して動けばいい歳でもこんな風に動けるんですよ」というのを知ってほしいから。
そして「何か不安なことがあったら、そして何もなくても心のモヤモヤを聞くからね。そして今のあなたを全肯定するからね」と伝えたいから。
そう、みんな頑張ってるよ!素敵だよ!って伝えたい。
なぜなら当時の私がそういう人がほしかったからです。


今も昔も生き辛い世の中へ。私が癌を隠してアジアに渡った時代とは今はまた違った苦しみがあると思います。その中で頑張ってる若い人を心から応援したい、って思いました。
何をどうしたら応援になるのかまだ見えてこないのですが、昔の自分と対話しながら考えてみたいと思います。


そして、応援するには自分がまずしっかりしなきゃいけません。1月30日、術後検診です。病理の結果が出ますのでここで今後の治療スケジュールが決まります。
全摘手術後は経過観察が理想だけど、もし何か見つかっても放射線治療でありますように。そして母の入院や介護やバイトや自分のやりたいことを並行して続けていけますように。


だって1度きりの人生。やりたいことをやらなきゃ勿体無い。
今日は近所の神社に経過観察になりますようにとお願いに伺いました。この神社はいつも私の声を聞いてくれる場所。私は特定の宗教の深い信者ではないですが、趣味「神頼み」なので住んでる場所の近くの神様によく行きます。日本でも、シンガポールでも、マレーシアでも、いつも会話を聞いてもらえる神様がいました。
私は神様に自分の声を聞いてもらっていたのかもしれません。

大吉でした😀

きっと大丈夫。
明日、行ってきます。