「10秒後に殺されたらどうしよう」と思いながら生きている
俺の中の岩下志麻様は今日もかっこいい。
突然だけど私は本当に優しさというものに過敏だ。優しさにとても弱い。そして怖い。
子供の頃から無意味に優しくされた記憶がない。基本自分でやるタイプだ。お姫様のように扱われたいと思ったことがない(そもそも経験もない)。自分が中心の祝い事は苦手なので誕生日パーティーなど無理無理。己に向かう女子力はゼロというかマイナスである。
そして自分が何かを行う際には等価交換を最優先、つまりビジネス的に行うのが好きだ。しかし自分がやる場合は違う。「この人に何かしたい」と思った時、等価交換にならないようにとにかくやり逃げする。
自分に無償に優しくされると、正直どうしていいかわからない。
自分で何かやると決めたらやる、でもやれない時もある。結果は正直しょうがない。そしてやれなかった自分以外の人間に対しては事実は事実として受け入れる。そして「事前にプランニングしていた」別案の検討に早急に入る。
この「状況を常に測り、現状を悟って有事の際は別案の検討できるように準備せよ」というのは私が遠い昔、防衛庁(当時はまだ庁だった)の出入り業者として仕事をしていた時、防衛大学出身のエリート自衛官さん達の飲み会で教えてもらったことだ。
当時はまだ官民交流が可能だった。自衛官さん達は基本とても落ち着いていた。私は聞いた。
ある自衛官さんはニコニコしながら教えてくれた。
はあああ?
ちなみに私は大学時、ガチ運動部に所属していて(いわゆる体育会)いわゆる体育会思考であった。やれと言われたらやる。死ぬ気でやる。これだ。しかし、殺されるまでは考えたことなかった。その自衛官さんは続けた。
殺されないためにはどうしたらいいか。そこからかよ。
この思考は私の中に強く強く残った。殺されなきゃいいや。って思うことから回避のフローを組み立てると、脱出の第一段階は大体見えてくる。だってそう簡単に人って殺されないし(でも今のウクライナを見るとそうでもないって思えてしまうのが悲しい)第一段階が見えてくると、ちょっと落ち着く。
そして他の自衛官さんがここで猛烈な援護射撃。
この時に一緒に仕事をした自衛官さん達には本当に影響を受けた。「殺されたくなければ人に聞くけど最後に決めるのは(決定の変更を決めるのも)自分」という思考で今も生きている。
「自分にも人も盲目に信じない」という基本スタンスは今は受け入れがたい人も多いだろう。承認要求なんてものはまさに「自分を信じてくれる人の可視化」。でも、私にはこの思考はものすごくしっくりきた。なのでつるむのも好まないし、そもそも自分を含めて人を盲目に信じない。とりあえず「明日殺されたらどうなるか」を初期設定として、そこからの対策をどうしようか、A案B案どうしようかと考えながら生きている。
何を大袈裟なって思う人もいるかもしれない。私からしたらなぜ「自分は明日ものうのうと生きていられるのか」と思えるその自信の根拠を知りたい。そもそも大地震などの天災はいきなりやってくるではないか。天災がなくたって明日交通事故に遭って死ぬかもしれない、いやその事故は10分後に来るかもしれない。
事故に限らない。明日、たまたまお腹が痛いと気軽に行った病院で重病を宣告させるかもしれない。そう、いつ何時どのような事が起きるか、いつどういうものに人生を終わらせられるのか、人生はわからないのだ。
しかし、私はこの思考を自分以外の誰かに押し付ける気はない。同時に私がこういう思考であることを誰かに咎められることは私は認めない。
「お母さんって怖いって思う人、いるだろうね。」って子供に言われたことがある。確かにこういう人、近くにいたら怖いかもしれない。イメージは極妻の岩下志麻様だ。かっこいいけど、こういう人、近くにいたら確かに怖い。
大丈夫ですよ。落とし前は自分だけでつけますから。