あ、共感とかじゃなくて、「あなたがここにいてほしい」。
他人に対する意識を止められたら、そこにいるだけの素晴らしさが見えてくるのかもしれない。
楽しみにしていた展覧会の内覧会に呼んでいただいた。
東京都現代美術館、「あ、共感とかじゃなくて。」展。ホックニーパイセンは他の方にお願いするとして、私はこの展覧会について書いてみたいと思う。
共感って言葉ってしんどい。ほんまにしんどい。自分のことをわかってほしいと思いながら人に「あなたのことわかってるよ」と言われると「何がわかるっつーねん!」と憤りを感じてしまったりして。
そう、人間というのは本当に本当にめんどくさい存在。
この展覧会のタイトルはとてもいい。「あ、共感とかじゃなくて」というのは共感を求めていない。じゃあ何を問ているのか。私は
ではないかと思っている。
私は去年の8月まで9年間東南アジアに住んでいた。マレーシアでは厳しいロックダウンを体験した。私自身、自宅監禁状態の時間は今でも振り返れない部分もあるほど、病んだ。もちろん、ただ病んでいただけではない。自分も含めて、多くの家庭がそれぞれ工夫をして生き延びた。すべての家庭にそれぞれのドラマがあったと思う。もちろん、すべてがうまく行ったわけではない。家での会話とか家族で映画鑑賞を強要した家の子供が結構荒れた、という話はよく聞こえてきた。ええ、あのご家庭が?と思うこともあった。そこから私は「共感の強要」、「共感の承認要求」って虐待なのでは?と考えるようになった。
共感って本当に難しい。正解はもちろん見つけられなかったので、自分なりの距離感持っての共感を意識するようにした。
この3年間、多くの人が傷ついた。そして、今の青少年って「いい子」が多い。なので拒否を明確に示す前に「あ、共感とかじゃなくて」で言葉は止めてそのままスーッと引いた的な子が多かった気がする。
彼らは本音を言ってくれない。彼らの( )な思いを違う世代が察してこっちが距離を保ちながら話しかけないと、断絶が取り返しがつかなくなるってのに。
私自身は日本では、日本のコロナ禍って大人が比較的自由度があったからあまり絶望感を実感できてないのかなって想像している。青少年にとっては変えられない学校生活での色々な出来事(修学旅行から帰宅時の買い食いまでそれは様々)が大人によって根こそぎ取り上げられたことに対してどれだけの絶望を与えたかってことに向き合ってないのでは?ねえ、そこ、そのままでいいの?を強く感じている。このみてないふりをする感、すごく危険なのではって思ってる。
ではこの展覧会を見にきた我々は一体何をどうすべきなのか。そう考えながら展示を1つ1つ見てみた。「僕たちの気持ちわかった気になってない?その強要を共感って言葉で正当化していない?」と突きつけられているような気持ちを勝手に感じていた。同時にこの展覧会、作品についてどう見たらいいのか、正直戸惑う鑑賞者(若者、非若者を含めて)は多いかもしれないと勝手に推測していたらふと我に返った。「なんか足の裏で感じてるな」感。
こちらの展覧会。いわゆる現美の夏の子供向け展覧会の割には触れるものは多くない。同時に靴を脱いで踏み込んで体験出来る展示が多い。靴を脱いだり、ビーズクッションに座ったり、芝生の上に座ったり。
靴を脱いで初めて感じる足の裏の感覚。内面のセンサーに想いを馳せる。能動的だけど悲劇と遭遇する可能性も常にある「歩く」という行為。そういえば、展示室を歩く足の裏の感覚は人それぞれ。違って当たり前なのに、そこに共感とか何言ってんのと我に返った訳。
今、多くの人は行動に評価が伴わなければ意味がないと思いがち。評価と共感を混在している人も少なくない。しかし共感ってそんなに簡単に出来るもの?
あなたの内面ってそんなに簡単に外側から理解出来るの?
この展覧会ではぜひ脱ぎやすい靴、リラックスする服装で来てほしい。そう、部屋着みたいな格好がいい。日本人は基本部屋では靴を履かない。靴を脱いで、クッションに腰を落ち着けたら自分の部屋で味わった安心感を思い出すだろう。
それ以上何も考えずにその場に揺蕩ってみよう。
青少年ではなく大人もそこで靴を脱いだりビーズクッションに腰を埋めたりして相手の気持ちをどうだこうだと推測する共感という概念から、自分を解放しよう。
解放が始まったらきっともっと素直に「あの時はすまなかった」と言えるようになるはず。あの時の謝罪の声を聞いて返事ができるようになるはず。
人間は呼吸と同じくらい後悔をして生きてる気がするんですよ。
この展覧会ではぜひ内面の解放に集中してみてほしい。展示の意味とか、作家が何を伝えたいか、ということを理解しなきゃとか思わなくていいと思う。何回かこの展示に通ったら、前回と違った感覚を感じるはずだから。
私はこの中で参加してる作家さんでは渡辺篤君の展示を何回か拝見させて頂いているけれど、今回、新しい発見を感じたし、同時に前回作品を見た場所の懐かしさが蘇ったりした。
このnoteのサムネに使った渡辺篤君の《ここに居ない人の灯り(「同じ月を見た日」より)》は私は以前2022年の瀬戸内国際芸術祭で鑑賞した。その時の気持ちを思い出し、そして2022年に2023年7月をこんな風に過ごしていると想像できたかな?と思ったりした。
だから理解や分解に気持ちをシフトしなきゃって思うことはないと思う。体の中に詰まってるモヤモヤした何かが落ちていく感覚を味わってほしい。
あ、共感とかじゃなくて。
ってことに気づいてくれればそれでいい。
共感の強制の反対語は「程よい距離感」なのかもしれない。なぜ、人との関係性にある種の結論を出そうとしてしまうんだろう?結論なんて求められてないのに。結論を出すことをやめてみるっを意識してみると、いいかも。
同時に、この展示に9月以降に救われる青少年がたくさんいるだろうなって思った。コロナ禍が終わったことになって無理やり元に戻そうとして、その結果歪んだ形がもっと歪んだ形になった。そしてその歪んだ形を別に直す必要がなかった時期があったのに、無理やり直さねば!という流れに皆が苦しんでる。
秋になった時には、足の裏の感覚がまた変わっているだろう。その変化も含めて、変化そのものを優しく受け入れていこうや。
みんな本当に頑張っているのだから、もっとみんな自分をそのまま褒めていい。
レコードの中にピンクフロイドの「Wish You Were Here」があったらなんか泣いちゃったかも。
本当に良き空間でした。また伺います。
11月5日まで。基本月曜休館。