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死を意識して、今日を生きる。

毎年この時期は同じことを書いてる気がする。しんどい。11月、12月は各種更新手続き、年末のきらびやかな雰囲気、そして「今年もあれもこれもやりたかったのに出来なかった(出来たこともいっぱいあるのに!!!)」と落ち込む時期である。

これでもか。これでもかって感じで小さな試練が訪れる。昔と違うのはこの体験は「初めてではない」こと。しかしまあ「去年と同じにならない」も毎年のこと。めげずに続けていくしかない。それにしても、辛い。

私自身、日々の生活で意識してることがある。それは

「子供の世界の他に、大人の世界に子供を巻き込むこと」

私は息子が赤子の頃から美術館などに連れて回った。それは私がワンオペ育児&親の体調不良などで預けられなかったから。この状況はずっと続いた。お叱りを受けることも多かった。大人の世界に子供を連れてくるな。息子は子供の世界をもっと満喫させるべきだと。(ブログ記事ごとに私が子供を美術館に連れ回していると思っている人も多く、あなたのしていることは虐待だと匿名コメントをもらったこともある。意識して当時夢中でやっていたサッカーの練習着で展覧会前で写真を撮った。知らんがな!って呟きながら。)

東南アジアに転居すると状況が変わった。子供に大人の立場から日本人としての美しい所作や、言葉遣いを教えて下さる人が出てきた。英語を使う場合の所作との違いを教えてくださる人も出てきた。同行も全く怒られなくなった。子供は素晴らしい先輩に恵まれ素晴らしい環境を築き上げていく。

そして現在は私よりよっぽどしっかりコミュニケーションが取れる。本当に羨ましい。英語に関しては、私はもう彼の世界から遥か彼方に置いていかれている。

そして私はここ数年「死」を意識するような体験を数多くした。父親も見送ったし、母親を(おそらく最後の)墓参りにも連れて行った。身の回りで大病に関わことも多かった。その都度、置いていけないので息子も同行してもらった。

彼は日本で暮らす13歳より「死」を考えることがとても多かったと思う。その体験は彼にとても強い影響を与えていると感じてる。

「死を意識する環境」が続くと常に「その人がいなくなったらどうなるか」を意識する。そのために自分は何をすべきか、自分より大事な人に自分は何をしてあげられるかを常に考える。

私のいない世界になっても、彼のことを知ってる大人が多ければ多いほどいいと思う。だから私は(事前に許可を頂いてます)彼を私の世界に紹介することを重要視する。

自分の子供に親である自分以外の大人との交流の場を持ってもらう。これはとても重要だと思っている。