見出し画像

美術館オタクおばさんは美術館女子をもう泣かしたくない。だから根本的理由と対策案を考えてみた。

美術館女子案件がネットの一部で話題です。

いやあ燃えるだろうなこれって思ったら案の定燃えましたね。私も思うことあってnote書きました。

その後、色々な批評が出てきました。

でも、私個人的にはなんかこの落ち着き方にしっくりこなかったんです。批判や批評だけが出てきて、そこで終わってしまえば同じことが繰り返されるのではないかと非常部不安になっています。

実際この手の企画、3年前にこんな企画がありました。

あー今読んでも私的にはちょと受け付けられないですね。ちなみにここに出てくる方、こんなことも申しておられます。

ちなみに!この記事が出るもっと前にはこんな話題がネットで出ていました。

2012年、2017年、そして2020年。定期的にこの「文化における女子とおっさん」のコラボは産まれているわけです。オリンピックかよ。

今回の件で「もう2020年だからこういう話は終わりにしたい」という意見が多く見られましたが私は、今の状況では2023年にまた出ると思います。なぜなら

「美術館オタクおばさん」の私には「どうしてこの手の企画が繰り返されるのか」関わってる様々な人が根本的な掘り下げをしてないように見えるから」

私はあえてここで自分を「美術館オタクおばさん」とカテゴライズしてみました。「カテゴライズ批判」なのになぜここで自己のカテゴライズを行うのか。なぜなら「カテゴライズという事実の批判的重要性から自己を開放しないと話が始まらないから」と思ったからです。


「美術館オタクおばさんですが何か問題でも?」


このようなカテゴライズに関して「〇〇女子」「〇〇男子」って言われたくない、やめてという主張。それは

「自己のアイデンティティに対して他者のカテゴライズが耐えられない」

という考えに基づいているのだと思われます。美術館オタクおばさんは思います。

「気にしすぎじゃね?」

カテゴライズは分断を産み出します。あなたはこうだからと他人から設定される。ふざけんなと思います。しかし、このようなカテゴライズは各所で見られる傾向です。でもこの「文化においておっさんからの女子のカテゴライズを不快に思う、傷ついたと思う現象」が繰り返されるのはなぜか。それは

「おっさんと女子」は文化芸術においてお互いが切ってもきれない関係である

だからではないでしょうか。


画家とモデル、文豪が残した恋文。男性からみた女性との数々の物語。文化芸術において「おっさんと女子」からは色々な文化で「作品」が産まれてきました。その作品の産まれた経緯は今のフェミニズムに忠実であればあるほど「とんでもない!」という作品も少なくありません。

数年ごとに繰り返される文化芸術を楽しむ場で「カテゴライズで弱者を傷つけると思われる行為」が繰り返される背景には「だって文化ってそういうものでしょ」という認識が残っているからではと私は仮説を立てました。


そこで「美術館オタクおばさん」である私は大声で恫喝させて頂きます。

「あんたは画家でもモデルでも文豪でも光源氏でもねええ!あんたはあんたや!」

優れた文化は自己が溶け込むほどに人を夢中にさせます。自己が溶け込むのは文化芸術に興味があれば当然のことです。なぜなら鑑賞者を第三者にしないほどの引き摺り込む力があるから。

優れた作品は人の心を揺さぶります。だからと言って引き摺り込むことを防御するために現基準にそぐわないものを排除するのはどうでしょうか。最近では「風と共に去りぬ」を配信停止、「全米警察24時 ~コップス」を打ち切りなどの動きが出ています。こちらはどうでしょうか。

インターネットが人々の生活に浸透すればするほど大きな影響力を持つことになりそしてその影響力を恐れる心境が暴走して先走る行動が産まれるという負のスパイラルが産まれている状況が見えてきます。

では、現在、求められる状況に合わせて過去の作品を葬り去るべきなのか。そんなことないですよね。ここで求められるのは

「作品は作品。あたしはあたし。何か問題でも?」

という「スルー力」ではないかと。

俺もお前も傷つきやすい。だから発する言葉に傷ついてしまう。しかも日本語という文化は「察して文化」。直接的な意味の後をついつい詮索してしまう。自分もそうだから思います。だからカテゴライズに敏感になるし、カテゴライズの世界に陶酔してしまう。

ここで私は「東南アジアでは」とか「英語圏では」とか言う気はないです。だって私が救いたいのは日本(の都市部)で美術館に通う人だから。アートツーリズムに組み込まれた美術館は日本でもまた別のカテゴリーに入ると私は分析しています。(上記のnoteを読み直してもらえると嬉しいです)。


そこで私は解決策を考えました。気になってしまうのはあんたのせいやない。育った環境や。だったら環境から変えてみればええんや・・・!!!

「対話型のガイドアプリ」を活用してみるのはいかがでしょうか。日本の都市部の美術館に行くときに感じる「気軽に感じれる非日常感」が程良すぎるのでついついそこのいる人を見てしまう。話しかけてしまうのなら

「鑑賞時に人に構う暇がないくらい作品の世界に引き摺り込んだる」

そんな環境を作ってしまえばいんです。これはもう戦いです。チケット購入と同時にガイドアプリをダウンロードの権利が付与されます。スマホがない人には専用端末が貸し出されます。ガイドのタイプは複数から選択することができます。数名のパターンがあるといいですね。こちらの会話は番号で選択制にして、その選択によって回答が変わるんです。時々恫喝も入れちゃいましょうか。ガイドアプリは雛形を公募、原稿はコンテストで選ぶのも楽しいですね(それこそオタク心が刺激される!)

ちなみに。それでもいると思うんですよ。ナンパしてくる奴。そんな奴がいたら通報できる仕組みも組み込みましょう。通報したらささって係員が来てくれるってわかればみんな安心して行けます。購入時にはある程度の身分証明も記入しますので過度な通報者の場合は美術館側でも把握することができます。

この「対話型アプリ」の擬人化コンテストも面白そう。既に美術館の擬人化は盛り上がってます。素敵。

私はもう同じ悲しみを繰り返したくないのです。美術に触れたい人が美術館に行ってワクワクしたりびっくりしたりして「楽しかったあ」と帰ってほしい。それだけなんです。そこにいることでカテゴライズで傷つくことを繰り返している状況を変えたい。まずは自分が足を運び、自分の言葉で発信し、その言葉から垣根を低くする。それがまず自分ができることだと思っています。

そして新型肺炎で世界が変わった昨今、「技術で変えられること」という選択肢も選択できるのではと考え、こんな案を考えてみました。

美術館を訪れる全ての人が笑顔で帰れるように自分のできることをしていきたいと思います。