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【小説】マリオネットとスティレット【第一話】

 時計塔の鐘がゴーン、ゴーン、と聞こえる。家の壁には飛び散った血が拭き取られもせずに残っている。通りには汚れが黒くとどまって、ヘドロのように溜まっている。薄汚れた格好をした男が、酒瓶片手に倒れていても、行き交う人は誰も気にしない。
 昼でも暗い、この街で最も危険な地区、貧民街。夕刻、暗い街角がもっと暗くなっていくそんな時間、物言わぬ死体となった被害者が発見された現場は、比較的人通りが多い場所だった。
 往来の人々は、特段珍しいものを見るでもない、猫の死骸にちょっと注意を払う程度の感覚で、死体のそばを通り過ぎていく。そして口々にこう言っていた。
「見ろ、また暗殺ギルドの仕事だ」
「ああ、どのギルドにも属さずに、仕事の斡旋をしてたやつだ。流れ者だな? バカめ。この街でそんなことが許されるはずもないのに……」
「誰を恐れるべきかを知らなかったらしいな」
「さすが、暗殺ギルドはいい仕事をする。街に寄生した邪魔ものをちゃんと排除してくれたのだから」
「ダンジョンから掘り出したアーティファクトの横流しをしていたとも聞いたぞ?」
「なに? じゃあ冒険者ギルドの中に……」
「シッ! よせ! かかわるな……っ!」
「なあ、それより大通りの封鎖、いつまでやってるんだ?」
「冒険者ギルドは何をしてる? ダンジョンに入れない下位のパーティを治安維持に回してるんじゃなかったのか?」
『どうしようもない。占拠してるのは傭兵ギルドの獣人部隊だからな。どのギルドも……それこそ暗殺ギルドも手出しできねえさ』
 通りの壁にもたれかかるように血まみれの死体があった。粗末な羊毛の服も、革ベルトに吊ったナイフも、赤黒く汚れ、永遠の沈黙の中にいる、名もなき無法者。背後には黒いタールで、黒い短剣(スティレット)の紋章が……。街の中心の大時計塔が、「ゴーン」と鐘を打つのが、遠く聞こえた。

*****

 次の日の朝、早い時間、まだ裏通りの屎尿から立ち上る湿気が、霧のようになって地面を覆う頃。ロバが引く荷車が、泥と人糞の混ざったヘドロの石畳を行く。腐って歪んだ木製の車輪がゴロゴロガタガタと不安げな音を立て、荷台に重なった死体の中の、まだ生きている者の呻きを打ち消してしまう。ボロ布を腰に巻いただけの痩せこけた少年が、3日ぶりの食料にするために猫を追い回している。街路の石積みの壁にもたれかかった老人は白濁した目で、人間の死体の味を覚えたカラスどもが、ギャアギャア言いながら教会の尖塔のあたりを飛んでいるのを見つめている。遠くには大きな、本当に大きな時計塔が見える。明けきらぬ空に始業を知らせる鐘がゴーンと響き、まだ手足が動くおかげで食い扶持を稼ぐことができる幸運な者たちが、この貧民街から出かけていく。
 一人の女が、疲れも回復しないまま汗と油で悪臭を漂わせる労働者の群れを見下ろしていた。彼女がいるのは屋根の上の尖塔で、ぼうっとした表情で人々を見下ろしている。薄い金色の髪を後ろで束ね、体にフィットするコスチュームに、大型獣の皮でできた軽装の肩当てをつけて、腰を落として膝を突いている。赤い瞳は捕食者の鋭さと、若い無邪気さを備えていた。瞳はちらちらと動いて、眼下の人間を一人一人見分けようとしている。誰も彼も、疲労をベッタリと火傷のように皮膚に張り付かせていて、わずかな日当を得るために、うなだれて前夜を過ごした集団宿泊用の安宿から出かけていく。
 その時、女の赤く鋭い視線が、一人の男に止まった。大柄な男だ。痩せこけた他の労働者とは身長も体重も二回り以上大きい。そして筋骨隆々。カラフルな羽根を縫い付けた橙色の帽子に、色とりどりの柄の服。傭兵だった。暴力を生業にしている、この街で一番でかい顔をしている人間。女の唇が動いた。
「……アレを持っていけば、父さんに褒めてもらえる……」
 そのセリフは風だけが拾うように聞いて、また街の澱んだ空気の中に溶けてしまった。大男は上から見られていることに全く気付かず、彼女のいる屋根の上の真下を通り過ぎ、呑気に歩いていく。彼女はうっすら笑みを浮かべると、それを追跡する。屋根の上という、普通は誰も注意を向けない場所を行くから、誰も気づかない。
 やがて、その男と同じような格好をした連中の一団が見えてきた。屋根の上からだと、はっきりと陣容がわかる。派手な帽子飾りに、鈍く鋼色を晒す胸甲。長槍(パイク)を持つものあり、身長ほどもある大きな火縄銃(アーケバス)を持つものもいる。とりわけ目立つのは、身体を毛に覆われた者がいることだ。
「この街区は、その本来の役目を忘れ、不法な統治を行う魔法科学ギルドから解放される! 我ら傭兵ギルドは、獣人の奴隷化に反対し、傭兵憲章に基づく平等な自治を求む! 我らは寄付金を募っている! この通りを通る者は、誰でも寄付を行うことができる! どうかこの街の改善に協力して欲しい!」
 傭兵たちは、この区画に槍持ちの歩兵を等間隔に配し、やむを得ず通らざるを得ない市民たちを、あるいは素通りさせ、あるいは呼び止めて、何やら受け取っている。明らかな底辺労働者……その日の暮らしにも事欠くであろう貧しい者には目もくれず、少しは金を持っているだろう、仕立ての細かい服や、装飾品を身に纏うもの、靴に汚物が跳ねていない者などを選んで、二人か三人で前へ立ち塞がって通せんぼをし、「寄付」を受け取っている。
「見つけた……!」
 その様子をじっと屋根から見下ろしていた女は、生来の美しい赤みが乾きで曇った唇を開き、笑みを浮かべた。傭兵たちのなか、その中心に、一際大きな体格……2メートルに達するような、そんな背丈の者がいた。獣人である。耳が仕立てのいいつば広の真っ赤な帽子で隠れている。装備がいい。全身を完全に銀色の鎧で覆っている。帽子から伸びる飾りも、ひょっとすると魔界にいるという、虹色に光る超常の鳥のものかもしれない。明らかにこの獣人が、この反乱行為のリーダーだった。
 屋根の上の女は、腰のベルトに吊ったポーチから紙片を取り出して、何やら内容を確認している。最終的な目標の確認らしい。読み終えると、そのメモを放り投げる。それはひとりでにチリチリと焼け焦げ、チリになって宙に消え去った。それは、暗殺ギルド特有の魔法技術だった。それには目もくれず、女は狙いを定め、屈ませたしなやかな体を一気に伸ばし、屋根の上から飛びかかった。四階建ての屋根の上。石畳目掛けて。普通の人間であれば、地面に激突し、骨折、大怪我、いや死亡することは免れないだろうが……。致命的なダメージを受けたのは、あの獣人傭兵のリーダーの方だった。女の拳によって、男の体は岩場に叩きつけられたかのようにグシャグシャになり、着ていた鎧は板金がひしゃげて飛び散り、あたりに大きな血の花が咲いた。
「うわああああああ!!」
 あたりに傭兵や通行人たちの悲鳴がこだました。しかしもう、殺害を実行した犯人の姿は、どこにもなかった。
 やがて到着した冒険者ギルドの治安部隊により、傭兵たちのちょっとした小遣い稼ぎは、終わりを告げた。

*****

 誰もが夢を見て農村から出てこのダンジョン都市にやってくるが、夢を叶えられるのはほんの一部だった。冒険者になれるのは極めて少数、市民として鍛治仕事でも得られれば上々、それ以外は、社会の底辺とも言える身分に転落して、叶えられなかった夢を思い出しては後悔するだけの、辛く短い一生を終える。幸い、テルーライン・アルエイシスは、この都市の貴族に生まれ、夢という名の残酷な幻想から無縁の地位にいた。
 綺麗に掃き清められた、誇り一つない清浄な石畳の通りに、大時計塔の鐘が響く。ゴーン、ゴーンと、夜の街を叩き起こすかのように。終業の合図である。貧民街の方では、十二時間勤務から帰ってくる労働者たちでごった返すであろうが、大時計塔に程近い、貴族たちが邸宅を構えるエリアでは、人はあまり歩いていない。どこぞの屋敷でパーティか、馬車が整然と秩序だって通る他は、主人のわがままで何か買いに行かされる使用人すら、そうそう見かけない。
「ハァ……」
 テルーラインは、ため息をついて、自分の身を抱くようにコートをきつく体に巻いた。それは美しいビロードでできていて、防寒用というより、装飾用に近い。金糸の刺繍が、通りを彩る魔光灯を受け、暗い夜道にキラキラ目立った。歳は16である。見ての通り、貴族の御曹司。そんな若者としても若すぎる少年がひとりで歩いていても安全なほど、この地区は治安が保たれていた。
 やがて自宅に着く。門扉を衛兵が開ける。テルーラインは一言、ありがとう、と言って、刈りそろえられた芝生の間を玄関に向けて歩く。彼はこの時間が大嫌いだった。門扉を潜ってから、重々しい扉を開けて家に入るまでの、時間にして一分ほどの道のり。彼の家の財力であれば、もっと大きく前庭を構えられたのだろうが、街の中心部で密度が高いこともあり、あまり過度に贅沢に土地を使うのは、特に都市の評議会メンバーの貴族たちの間では好まれなかった。結果、家の広さは、地方のはるかにのささやかな財力しか持たない領主よりも、ずっとささやかなものになるが、テルーラインにとってはそれすら気に食わない。
 家すらなく、その日の食べ物にも苦悩し、寝る時に床を使うか壁にもたれるかすら、自分の自由にならない、エルフや獣人の奴隷と変わらない生活の労働者たち。彼らの境遇を知る彼としては、自分が持っている特権も、財も、親から浴びせるように与えられる物や教育の数々も、全て気に入らなかった。
 細身の彼の、同世代の少年と比べても華奢な手が、戸を押した。一気に外気の冷たさから、家の中の暖かい空気に包まれ、彼は安堵を覚える。だが、やはりどこか気に入らないのだった。
「おかえりなさいませ、坊っちゃま」
 卑しい生まれだが、教育の行き届いた執事が、テルーラインに挨拶する。彼は手を軽く挙げてそれに応え、外套を預けると、広間にすすむ。二人のメイドが合図すらなく大きな扉を開けて中に迎え入れる。中では、評議会のメンバーの貴族たちが、夕食を終えてくつろいでいた。広間は普通の街区の一つのブロックに迫るほどの大きさで、華美な服装の男女が、思い思いの場所に、四人か五人ずつでソファーに座って、何やら話し込んでいる。
「下水道の整備計画を急ぐべきだ! 悪臭は大いに問題だよ。君は魔法的対処で疫病を防げるというが、そういう問題ではない。天候と風向きによっては貧民街の悪臭が中心街に流れ込むではないか。全く我慢ならん」
「そんなことよりもっと私の研究所に予算を回して欲しい。もう少しで進化論の実験が成功しそうなのだ。個体の成長を魔法的に逆行させた場合、獣人とエルフ、ドワーフ、人間種の共通の祖先は……」
「また中央王権に睨まれそうな実験をやりおって……」
「……今日、傭兵たちがまた通りを封鎖した」
「聞いてるよ。商人ギルドは例によって、抗議すらできないまま冒険者ギルドに泣きつき、銀盾級冒険者パーティが準備をして傭兵たちを追い散らそうとしているらしい」
「目撃者によれば、何者かが獣人の傭兵隊長を殺害したというが……定かではない」
 テルーラインはその全てを無視して、広間の一番向こう壁に向かう。そこには十人程の女性が輪になって、一人の大柄な金髪の男性を囲んでいた。テルーラインとよく似た、濃く輝くブロンドの男……。
「ふふふ、アルエイシス卿のお話、本当に面白いですわ」
 これでもかと金の装飾が入った椅子を囲む貴婦人の一人がそう言った。
「ほんとほんと。流石、才能がおありなのね」
 もうひとり、別の女性が言う。みな、色とりどりのドレスに身を包み、笑顔を真ん中の男に惜しげもなく見せている。夫がいる者も、いない者もいた。
「フン! まあ、私の才能など大したことはない。重要なのは、我々の文
明の先進具合だ。異世界から転生してきたと伝えられる者のもたらした技術発展スケールで言うと、我々はすでに異世界における19世紀後半相当の生活を手にしていると言われるのだ。他の平行世界と比べても、その発展速度は目を見張る……。誇っていい。我らの魔法科学文明は、さらにその先の……」
「それは中央街だけの話だろ?」
 男も、それを囲んでいる貴婦人たちも、驚いたように目を向けた。遮ったのはテルーラインである。少年は、父親と貴婦人、苦手を感じる大人たちの視線を急に一身に浴びてしまって、一瞬たじろいだが、臆する自分を奮い立たせて言葉を続けた。
「中央街の文明度がなんだって? 父さん。わかってないよあなたは……。貧民街の住民は、人間も住民も含めて、本当にひどい生活をしてる。こんな裕福な暮らしをしていたらわからないかもしれないけどね」
 数瞬、その場を沈黙が支配した。テルーライン少年はその沈黙にすら怯んだ。そのことに対して情けなさを感じたが、彼の父親はソファーに深く腰を落としたまま、軽く手を挙げ、周りの婦人たちを見てこう言った。
「ご覧、我が友たちよ。我が息子は立派に成長している! その証拠に、近頃流行りの『富める者の罪悪感』なるものにきちんと罹患しているぞ!」
 そこまで言って、真面目な顔で指を一本立てた。
「おっと、勘違いしてくれるなよ? 性病ではないぞ? 真面目な童貞が罹る、聖なる病だよ」
 その場に、一際大きな笑い声がケラケラ起こった。婦人たちの、本来の高貴な笑いではなく、本当に可笑しいと思っている時の、いたずら好きな少女の笑いだった。
 テルーラインは、自分を嘲り笑うと言うより、父親が実の息子をネタにして言ってのけたウィットに笑いを捧げていると言える、これら貴族の婦人たちを、苦々しく見つめた。16歳の少年には、この社交場に居場所はないらしい。彼の父親、ロドヴィコ・アロエイシスは、ソファーから立ち上がり、むっつりと口を閉ざす彼の息子に歩み寄った。テルーラインは強い視線を投げかけるしか無かった。彼の華奢な肩に、父ロドヴィコの分厚い男らしい手が置かれる。
「ところでどうした? 我が自慢の息子、テルーラインよ。今日はローデシア評議員の家に泊まる予定ではなかったのか?」
 テルーラインは視線を逸らして微笑む。自嘲的というか、ニヒルな笑みだった。
「そのつもりだったけど、あいつ、その、なんて言うか……少しハイになって……屋上からなら銃で貧民街の方が狙えるって言い出したんだ。それでこっそり持ち出して……元込め式? だったかな。僕にはよくわからないけど。みんなは撃つたびに盛り上がって、でも僕は……ちょっと……」
 その笑みは話の内容の言いにくさを誤魔化すためだったのか、はたまた、先ほど実の父親に女性の前で笑い物にされたことを、ちょっと心配してくれた程度のことで許してしまう自分を嘲っていたのか……。彼にもわからなかった。しかし、ロドヴィコは喜んだようだった。
「ほう! お手柄だぞ! テル。値千金の情報だ! ……奴め、元込め式の銃をついに発明したのか。しかも貧民街が狙えるだと?ここから何区画あると思っているんだ……これで戦争は大きく変わるぞ。パイクも騎兵も先込め銃も姿を消すだろう。量産品が傭兵連中に行き渡れば、我が都市の軍事的優位はさらに盤石となるだろう!
 テルーラインは、部屋の暖かさも、肩に置かれた父親の手の温もりも、だんだんと遠くなっていって、冷めた感覚が体を支配するのを感じた。
「そうだね、父さん」
 ロドヴィコは興奮したようで、ソファーの周りを歩き回ったり、婦人たちの手に戯れにキスをしたりしながら、一人で喋り始める。
「それもこれも我が研究所のアーティファクト解析の成果だよ。わかっているのか? 我が息子よ」
 テルーラインはもうすっかりどうでも良くなって、
「アーティファクトねえ。それも冒険者ギルドが掘り出してくれたおかげで……」
「お前は何もわかっていない!」
 急にロドヴィコが大声を出した。婦人たちがそそくさと離れて行き、広間に集まった貴族たちが何事かと注目する。ロドヴィコはハンカチを取り出して、バツが悪そうにそれで口を拭いつつ、咳払いをし、テルーラインに顔を近づけた。
「テルーライン、勘違いするなよ。お前は我々をただ単に他のギルドのアガリを都合よくつまみ食いしている特権階級だと思っているかもしれないが、事実は違う。我々は街を支配してるわけではないぞ。街の背中を押してるんだ。未来へ向けて。無理やりな」
 テルーラインは思う。どうしてこうも父と自分は異なるのかと。父の精悍な男らしい顔と、鏡で見る自分の中性的な顔を、頭の中で比べてみる。あまり意味はなかった。ただ、青い目の色だけが共通していた。
「父さん」
 少年は静かに答える。
「父さんがどれだけ僕を後継者にしようとしても、僕はそうならないよ。僕は都市の上の方の人々じゃなく,下の方人々に寄り添って生きることにしたんだ」
「テル……」
 ロドヴィコがテルーラインの背を優しくポンポンと叩く。呼び方も、もっと小さい時のものになっている。
「お前が貴族として、このやや経済的不均衡が大きい街において、罪悪感を募らせ、一旦奉仕の気持ちに救いを見出しているのはわかる。わかるぞ。お前は信じないかもしれないが、父さんもそうだ。だからこそ街のために働いているんだ」
 テルーラインは黙ってその言葉を聞く。議論は毎日のことだが、街の評議会の貴族たちが大勢集まる自宅広間のパーティの場という環境が、父の言葉に誠実さを与えていた。
「だがな、テル。経済的不均衡は人を狂わせる。バカになってしまうことからは逃れられない。貧困のせいで狂ってしまったバカどもにどう対処するかは人類永遠の課題だよ」
 テルは反論しなかった。彼とて、支援する貧困層の、あまり賢いとは言えない振る舞いを何度も目にしてきている。
 ロドヴィコは改めてテルーラインに向き直り、両肩にずっしりと手を置いた。
「お前もいずれわかる。バカは飴と鞭でしかコントロールできん。お前のように飴ばかり与えていると、いつか、ひどい裏切りを受けるぞ。父親としての忠告だ」
 テルーラインはじっと父親の、自分と同じ色をした目を見つめた。今度は物おじしなかった。
「僕はあなたとは違う道を選んだんですよ、父さん」
 ロドヴィコはため息をつき、ついに苛立ちをあらわにする。
「ハァ、尊敬するよ、我が息子よ。聞いたぞ? また私財を投げ打って救貧院を支援したそうだな。あの暗殺ギルドのボスの入れ知恵か? あそこには、あいつの末の娘もいるしな」
 テルーラインはそっと父親の手から逃れ、肩をすくめておどけてみせた。
「さあね」
 そして踵を返すと、事態の成り行きを演劇でも見るかのように遠巻きに見ていた来客の貴族たちの中を、知らんぷりして通り抜けて、広間から出ていく。背後でロドヴィコの太く、響く声がする。リーダーとしてふさわしい、威厳がありつつ、人々を奮い立たせ、自然と働かせるような声だった。
「覚えておけよ! 他のギルドの人間は信用してはならん。全員だ。お前は仲間以外に連中に入れ込みすぎるんだよ。我々は他者を操り人形と見る。支配すべきマリオネットは、代わりをいくらでも用意できないとな……」
 テルーラインが通った広間の扉を、執事が閉じた。テルーラインはその扉の向こうで、父が今の出来事を詫び、再び場を盛り上げようと何事か言うのを聞いていた。
(……やっぱり支配なんじゃないか……)
 父の言葉を思い出す。ため息のテルーライン。執事たちに軽くサインを送り、放っておいてくれと伝える。エントランスホールに戻り、ふかふかの絨毯が敷かれた、彫像を抱きしめるように両側から伸びた、大仰すぎるほどに大きな階段を登り、上層階の自室に向かう。広間のパーティに対応するために忙しなく働くメイドたちにいちいち礼をされながら、早めに寝ようと考える。自室に着き、扉を開ける。自室の周りからは、もう随分前から常に人払いをするようにメイドたちに言ってある。なぜなら、いつのまにか、彼の部屋には彼も知らない間に客人がいる場合があるからである。
「よっ! テル坊!」
「レカ……」
 テルーラインは呆れた顔を見せる。肩の力が抜け、どっと疲れを感じる。床の上には彼の蔵書が散らばり、そのそばに、絨毯の上に寝転がる一人の若い女性。薄い金髪を後ろで束ねた、黒いコスチュームの赤い瞳の女がいた。貧民街の屋台で手に入れたと思しき、獣人特性のパイを頬張っている。食べかすがボロボロと開かれた本の上に落ち、テルーラインは顔をしかめる。
「レカ……どこから入ったか、聞いてもいい?」
 寝転がった女が足をパタパタさせながら指差す。
「窓から」
「……やめてって言ったよねえ」
 レカがニヤニヤしながら、
「じゃあどっから入りゃいーんだよ? 正面玄関から? 通してくれるはずねーだろーが。ま、あーしなら正面突破でも気づかれずに入れるけど」
 テルーラインはそれを聞きつつ、上着を脱いで壁にかけ、レカの隣にどっかと腰をおろした。教育係の執事が見れば注意されるだろう行儀の悪さだが、レカの前ではもうこう振る舞うことが日常となっていた。レカはもうテルには目もくれず、彼の本を読んでいる。テルは散らばっている本の一つに手をやり、めくってみる。食べかすが挟まっているところを見ると、それも読んだらしい。彼の好きな、科学冒険小説だった。だいぶ前から部屋にいるらしい。テルはため息をつく。
「まあいいさ。……ねえ、レカ。さっきさ、友達がさ」
「議員の息子?」
「……うん」
 行動を知られているのか、予測されているのか、もうテルとしては深く考えない。話を続けた。
「屋根の上から銃を貧民街……いや、この言い方はすべきじゃないな、新市街に向けて撃ったんだ」
 レカは本から目を離すことなく、モゴモゴ言いながら答える。
「ふーん。それで銃声がしてたのか。この区画には似つかわしくねえと思ったぜ」
 テルはレカを見る。どうでもよさそうな風ではあるが、聞いてくれるだけでもありがたかった。
「レカ、それでさ、僕、喧嘩になっちゃってさ。銃を撃つのを止めようとしたんだけど……できなくて……」
 レカの赤い瞳がテルを捉える。
「撃たれなくてよかったじゃん。なあ、そいつ殺す? 安くしとくぜっ」
 テルはレカの瞳を苦笑して見返す。
「バカ言うんじゃないよ」
 レカはニッと笑って、パイの残りを口に放り込んだ。
 レカは、テルにとって、幼馴染のお姉ちゃん。テルの家系、名門アロエイシス家の所属する魔法科学ギルドと、レカの所属する暗殺ギルドは、表向きは対立関係である。他のすべてのギルド同士がそうであるように。しかしあまり部外者に知られてはいけないこととして、評議会メンバーの息子のテルと、暗殺ギルドの重要な諜報員であるレカは、こうして部屋で二人っきりになる仲だった。本当は部外者には一切知られてはいけない関係ではあるが、テルにとっては、唯一気を許せる相手で、大切な存在だった。レカの方がレカの方で、2歳年下のテルを、弟のように可愛がった。本から手を離し、目を向けもせずにテルの足首をガシッと掴んだ。ギョッとするテル。
「おーい、テル坊? 体温低いぜ? 外はまだそこまで寒くねーだろーが。疲れてんだろー? ちゃんと休み取ってんのか?」
 テルは足を引っ込めてその手を振り払う。
「お、おい! やーめーろーよー! 慎めよ!」
 レカはどこ吹く風。寝転がってテルの本に目を落としたまま、鼻歌なんか歌っている。
「それにしてもよお、16歳で一つのギルドのナンバー2か。それだけでも大変だろうに、とりわけお前んとこのギルドは……」
「ちょ、ナンバー2って何だよ。いつの間にそんなことに……」
「暗殺ギルドのボスが言ってたぜ」
 テルは何となく居住まいを正した。暗殺ギルドのボス。テルが尊敬する人の一人だ。父ロドヴィコよりも、もしかすると、都市に必要な人……。
「そうか。でもね、僕は自分が将来継ぐであろう家の仕事に誇りを持ってるよ。持って生まれた才能と能力にも自信を持ってる。これを十分に発揮して、街のためにはたらくことは、僕の本当の望みであり喜びであり、これをしたいんだ! って心から言えることなんだ」
 レカは本から目を離さずに、
「そーかい』
 と笑った。テルは今しがた自分が言った本音が恥ずかしくなってくる。
「なんだよ、ニヤニヤして……」
 レカが起き上がり、ガバッとテルに抱きついた。身体能力で遥かに負けるテルはそれを避けられない。
「あっ! こーら! レ、レカ姉ちゃん、頭撫でるな!」
「レカお姉ちゃんはうっれしーぜー! 愛しのテル坊やがこんな立派に育ってさ!」
 テルは逃げようとするが、結構本気で力を入れても、レカの拘束から逃げられない。わしゃわしゃと豊かな濃い色の金髪を撫でられるだけ撫でられてしまう。
「あー、テルの匂い摂取〜」
「やーめーろーよ!」
 本気で怒ったことがわかったのか、レカはテルを離してやる。テルは勢い余って、柔らかな絨毯の上でつんのめってしまう。肩を受け止めてやるレカ。
「なあ、テル坊。なんかきついことあったらおねーさんを呼びな。街のどこにいたってすっ飛んでって助けてやるよ」
 テルはレカから意識的に体を離してそっぽを向く。照れで顔が赤くなってるんじゃないかと思うと、レカを直視できなかった。
「……なんでレカ姉は俺のこと構ってくれるの?」
 レカはあぐらを組んだ足をゆさゆさ動かして、面白がって答えた。
「ハッ、大人の女が、幼馴染の可愛い坊やのことを気にするのはよくあることなんだ」
 テルは自分ばかり照れくさい思いをさせられて悔しいので、ささやかな反撃を試みる。
「デートに行く余裕なんてないよ、忙しいんだ」
 レカはぶわっはっは、と心底面白そうに笑った。
「10年はえ〜よ」
 テルは鼻を鳴らす。
「10年経ったら、30手前の行き遅れだろ? あんた」
 レカは無言でテルを小突く。軽い力でも、女が出せる音ではない、すごい音がした。テルはたまらず頭を押さえる。
「イッテー!! お前怪力なんだから手加減しろよな!?」
 レカは赤い瞳でこの可愛い弟分を軽く睨みながら、ニヤニヤして言った。
「オネーサマをお前呼ばわりするな、出来の悪い弟だにゃあ」
「僕がいつ弟になったんだよ!」
「フッフッフ、男だぞ、とか、貴族なんだぞ、とか、最初に会った時にそんな生意気なことを抜かして秒で泣かされた時かにゃあ」
 テルはキッとレカを睨み返す。
「そ、その思い出はやめろ!」
 レカが拳をさっと掲げた。テルの両手がサラサラの金髪の頭をさっと覆う。
「やーめーろーよー、レカ姉ェ〜」
 レカは拳を下ろしてニカっと笑った。
「あっはは、まーだ子供でやんの」
 唇が嬉しそうに開き、白い歯のスキマから笑い声が聞こえる。テルは手を下さずに、その隙間から、レカの綺麗で野生味溢れる魅力的な顔を見上げる。テルは、自分より背が高いこの女暗殺者……ではなくて、小さい頃からまったく頭が上がらない年上の幼なじみの顔を、猛獣の様子でも伺うようにそーっと伺う。部屋の魔光灯の明るさに、レカのイタズラっぽい笑顔が光り輝いていた。
 ーー敵わない。
 テルは鼻をふんっと鳴らし、つくづくそう思った。そして、さっき広間で聞いたことを思い出し、ハッとした。明日の仕事の想像がついた。
「ところで、獣人の傭兵がまた何かしたんだって。……ハァ、また僕らが交渉に行かなきゃいけないのかな。面倒だ……家の仕事の勉強で忙しいのにこれ以上やらなきゃいけないこと増やさないでほし……」
「ああ、それね」
 レカが遮る。テルは不思議そうに幼馴染みの顔を見るが、なぜだか得意満面といった感じだった。
「それならもう済んだぜ?」
 そう言って、いつからそこにあったのか、散らばった本の傍に置かれた、何だかわからない包みをポンポンと叩く。
「え? 何言ってんの、レカ? 何でそんなこと言うの?」
 レカはニヤニヤしながら、
「そう思ったから!」
 と強気な様子で言う。テルは、またこの人の適当な物言いが始まったかと思って、ため息をついた。
「……頼むからモノを喋る時は、前頭葉による検閲を受け入れてくれないかな……。言語野と舌を直結しないでもらえるかな?」
 レカは一気に不機嫌そうになって、細いが筋肉質でしなやかな腕を組んで、ブー垂れるように言う。
「ッケ、相変わらず難しい言葉使いやがって。アカデミーで習ったのか?」
「うん。魔法科学ギルドの最新の研究だよ」
「賢く成り下がっちまって。昔はぴーぴー泣いてあーしにしがみついてたくせによぉ」
 テルはさっきから気になっていたことを言ってみる。
「それより……その包みは? なんか臭わない?」
 レカは一瞬だけ思案するように沈黙する。テルはあれっと思って、違和感を覚えるが、レカはその包みをガシッと掴んで立ち上がった。
「ひーみーつー。まだガキにははえーのー。んじゃ、邪魔したな。お前の持ってる小説、面白かったぜ」
「……あんたもまだ18で僕より2歳しか上じゃないだろ」
 テルはそこで話を終わりにしてまた今度ね、とでも言おうかと思ったが、頭の中の違和感が、もう少しだけレカと会話しろと囁いた。
「……ねえ、レカ。僕たちさあ。暗殺ギルドと魔法科学ギルドの裏の交流の一環として、それから普通の幼馴染みとして、一緒に育ってきたじゃない? その中で、隠し事なんかない……よね? いや、自信はないけど、僕は隠し事なんかしてない。でもレカ、君にはどうも……」
 レカが、今まで見せたことがないような冷たい視線をテルに送る。上からそんな強い視線を贈られたテルは、立ち上がってさらに言葉を続ける意欲を挫かれてしまう。赤い瞳。睨みつけただけで人を畏怖させる、血の色の、暗殺者の刺すような視線。それは、血に塗れたスティレットさながらだった。
 しかしそんな殺気も、フッと消えて、またテルの知る、いつもの姉代わりのレカのテキトーそうな笑みに戻る。
「……割に合わねえんだよ、生きるってことは」
 レカはそれだけ言うと、テルの部屋の窓へと向かう。テルは慌てて呼び止める。いや、それだけでなく、レカの手を握る。握らなきゃダメな気がした。レカは不意を突かれたのか、熟練の暗殺者らしくもなく、テルが彼女の手首をぎゅっと握りしめるのを、回避できなかった。いや、回避しなかったのか?
「……テル坊。いや、魔法科学ギルドの御曹司、テルーライン・アロエイシス」
 レカは手を掴まれても、振り返りはしなかった。錆びそうな背中で、テルに語りかけた。
「……なあ、テル。どんなに親しくても、最後のところでは分かり合えないってこともあるんだぜ?」
 テルの目に、レカの黒いコスチュームの背中は、寂しそうに見えた。厳しいベルトの装具も、何だかよくわからないものが入っていそうなポーチも、何もかも、この女の子には似つかわしくない気がした。
「レカ、君は……」
 レカがテルの手を振り払った。そして振り返り、窓辺に腰掛けた。満面の笑みだった。本心を隠しているようにも見えたし、本当に喜んでいるようにも見えた。
「にっしし! デート、10年はえーとか言ったけどよ、今度デートしようぜ」
「え?」
 面食らうテルに、彼女は畳み掛ける。
「今度、リリアと一緒に救貧院へ行くんだ。オメーも自分が出資してるとこ、見てえだろ?」
「あ、行く行く」
 テルが何も考えずにそう言うと、フッ、とレカが後ろへ倒れ込む。窓から落ちる!? テルは咄嗟に駆け寄って窓から身を乗り出すが、もう闇夜にレカの姿はない。
「行くんだなー、オーケー。また今度なー」
 声だけが、真っ暗な外の風に紛れて聞こえた。
「レカ……」
 夜風の涼しさを感じながら、テルは自分の感情を処理しきれないでいた。自分は、レカをどうしたいのだろう。……どうなりたいのだろう。思わず、自分の手を見た。
「あれ……これって……?」
 そこには、いつに間にかついたものだろう、乾き始めてジャリジャリの塊になりつつある、赤黒い血が少し、付いていた。
「レカ……」
 テルは、さっきレカの手首を握った感触を、忘れられずにいた。

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