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【小説】マリオネットとスティレット【第二話】

 富裕層の住む、なだらかに大時計塔へ向けて勾配が上がっていく中心街。そこを下って、すべての汚れと不正義が流れ込む貧民街。その間、街を構成するいくつかの街区の輪っかの間の隙間に、ギルドの施設が居を構えていた。魔法科学ギルド、傭兵ギルド、冒険者ギルド、商人ギルド、そして、暗殺ギルド……。それぞれのギルドの本部に、一つずつ、高い塔が建っている。高い塔と言っても、街の中心の大時計塔と比べると、筆を垂直に立てただけのようなささやかさである。それでも、その威容は数万人にも達する各ギルド組織の象徴。誰もが、その塔を見上げては、その権力におののいた。
 そのうちの一つに、真っ黒な塔がある。一際高くそびえる冒険者ギルドや魔法科学ギルドの塔と比べると、ずいぶん小さく見える。暗殺ギルド。この街で最も忌み嫌われ、恐れられ、そして陰で尊敬される……そんな人間たちの組織。そのボスが、塔の根本にある屋敷で、客人と会っていた。暗い部屋だった。誰にも決して知られてはならない密談という雰囲気を、あらゆる調度品が醸し出しているようだ。時刻はまだ夕刻にもならず、秋の涼しい風を引き込めばいいものを、窓は閉め切られ、暗幕が日光が入り込むのを制限してた。隙間からの陽の光は、控えめに床の絨毯を照らしている。都市ではそうそう手に入らないであろう、貴重な大きな木製の執務机は、磨き上げられてわずかな光を照り返して光沢を放っている。その奥には、大きな短剣の紋章の彩られたタペストリーを背に、今はもう絶滅した魔獣の皮革でできた、大きな椅子に座る男がいる……。ダークな色合いのフォーマルなフロックコート風の服装に、白く輝く広いタイで首を飾っている。薄暗がりの部屋の中に響くその声は、墓地を這う霧のように重たく、冷たかった。
「人は、一人で生きていくために都市を作った」
 静かだが、圧倒的な力を想像させる低音だった。銀色に霜を纏った髪を後ろへ撫で付け、整えられた灰色の口髭。眼光は斬りつけられた傷のように鋭く、優しげだが逆らえない眼差しは、執務机の前の客人用の椅子に座る訪問者を射抜いていた。
「獣人、食い詰め者、逃亡奴隷、犯罪者……ここでは、流れ者の過去をことさらに問いただすものはいない。万人がたった一人、独自の力と才覚でのあいあがれるパラダイス。それがこの街……」
 男は立ち上がる。背の高い男だった。その髪は長く、そして銀色の年月の霜を纏っており、顔の切り傷のように深くはっきりしたシワもまた、男の年齢を物語っていた。客人は、椅子の上で縮こまりつつ、しかしできるだけ威厳を崩さないように努力しながら、その話を聞いていた。
「……だがそれは幻想だ。ひとたび災害が起これば、どうしたって誰かと助け合うしかないし、そもそも日々消費する食料は、周辺の農村から運ばれるものだ。都市とは、たった一人で生きていけるという、幻想を共有するための装置なのだよ」
「何を……」
 客人が口を開いた。
「何を、おっしゃりたいんです? タティオン氏」
 男の赤い瞳が、銀の髪と氷のような白い顔の真ん中で、ギラリと光った。その眼差しは暗殺ギルドが掲げるナイフの紋章よりも鋭く客人を射抜いた。客人……冒険者ギルドの裏方、帳簿管理を任される、ウィレム・アークレイは、中年をややすぎつつあるくたびれた額の汗を拭った。何せ、目の前の男の威圧感ときたら、鋭く冷たいナイフの切先を常に向けられているような心地なのだ。
 190センチにしてスラリとした体。純銀色の鋼鉄のワイヤーを束ねたような筋肉に、老化を感じさせつつもまだまだぬらりとした刃物のような妖しい煌めきすら感じさせる肌。狼の立て髪のような銀髪。そして赤く光る、人外の血を示す目玉。暗殺ギルドのボス、タティオン・ヴォルヴィトゥールその人だった。
(これが暗殺ギルドを一代で列強ギルドに並ばせた男か……)
 ウィレムはごくりと唾を飲み込み、帽子を手の中でシワになるほど握り込む。タティオンの声がまた暗い部屋に響く。
「ワシらギルドの権力者は、そんな幻想に支配されてはいまい?」
 タティオンは、長身をググッと折り曲げて、座っているウィレムの顔を見下すように覗き込む。ウィレムの帽子がさらにしわくちゃになった。
「お、おっしゃる通りです、タティオン氏……我々は都市のくだらない成り上がりの夢を見てやってくるバカな貧乏人、農家の次男坊三男坊とは違う。ましてや、魔界から奴隷として連れて来られる獣人や他の亜人種どもとも……。支配する側ですよ、はい」
 最後の方は顔に汗を浮かべつつ、下卑た笑みを見せるウィレム。タティオンはそれに顔を近づけたまま、特に不快そうな様子もなく,頷く。
「いいだろう。確認はそんなところで十分だ。要件を聞こう」
 ウィレムはなんとか落ち着くと、むしろペラペラと、緊張を誤魔化すように話し始めた。
「タティオン氏。あなたの暗殺ギルドはちかごろ羽振りがいいですね、我々冒険者ギルドもあやかりたいくらいだ……ヒヒ。帳簿係として言わせてもらいますが、何せ最近我々は金がない。地方から人は集まるが……ろくな人材はいません。ダンジョンから採れる宝はいよいよ少なく、銀盾級以下の冒険者どもは、『話が違う』と反乱の計画を」
「反乱があるのか?」
 タティオンがまるで尋問のような強烈な印象もある一言を放つ。声色に感情は読み取れなかったが、それゆえに、ウィレムは勝手に怒りを幻視して、また震え上がる。
「い、い、いえ、計画があることを掴んだだけです」
 タティオンがウィレムから離れ、執務机の向こうに回って、カミソリのような眉をクイッと上げ、一瞬疲れたような表情を見せた。
「その反乱を我々に止めろと? 誰を殺せばいい?」
 ウィレムは慌てて、
「反乱それ自体は我々で対処できます」
 と言った。誰を殺す? そんな不穏なワードを、突きつけられたということで、自分の暗い陰謀を暴かれたような気になった。
「そ、その、タティオン氏。問題は首謀者です。こいつらがいる限り火種は消えない」
 タティオンはギギっと音を立てて執務机の椅子に座る。話を聞いてやるという、尊大さをあえて演出するために。
「とある金槌級冒険者のパーティです、彼らに消えてもらいたい」
 しばらく部屋を沈黙が支配する。ウィレムはつい、タティオンの真っ赤な瞳による凝視から目を逸らし、部屋の中を見回す。カーテンの影、家具の後ろ、あるいは、部屋の一角の、l意図的に演出された極端な暗がりの中に、暗殺ギルド凄腕のアサシンが何人隠れているかわかったものではない。依頼者である自分がそうそう酷い目に遭わされることもあるまいが、冒険者としての現場経験などとうの昔の事務屋ウィレムとしては、生きた心地がしない。
「なるほど……」
 ひとしきりの沈黙でウィレムを脅した後、タティオンはまた立ち上がる。
「ウィレムくん、ウィレムくん……」
 客人の名を呼びながら、彼の座っている椅子の後ろに回る。ウィレムは恐怖でどうにかなりそうだった。やはりくるべきではなかったか……暗殺ギルドへの依頼など、冒険者ギルドで立場ある自分がすべきことではなかったのだ。しかし、しかし……。
(事態は一刻を争う……っ!)
「リミナルダンジョンの内部のアーティファクトがほとんど枯渇状態だと気付かれたか」
 ウィレムは思わず振り返った。
「ッ!!……っな、なぜそれを!?」
 タティオンは彼の肩に手を置くことで制止する。重い。ウィレムは感じた。まるで岩の彫像に掴まれたような重さだった。肩だけではなく、なぜか全身が硬直し、強制的に前を向いたままになる。
「なあ、ウィレムくん。冒険者ギルドもいまは昔だな。街の外から仕入れたガラクタをダンジョンの浅い層に隠して、何も知らない新入り連中に宝探しゲームをさせているだけとは……」
 ウィレムは、身体中の血が引いていくのを感じた、
「あ、あんたは……どこまで知って……」
 肩の手が離される。ふっ、と、いきなり全ての重石がなくなり、ウィレムは少しだけ前につんのめる。ダメだ。この男には勝てない。肉体的にも、政治力的にも。ウィレムの錆びついて肥えた体に、本能からのシグナルが染み付いていく。最初から、彼は覚悟をしてきた。貧民でも、貴族でも、殺しの依頼であればなんでも受けてくれるという……暗殺ギルド。しかしその対価は、彼らが依頼人を見て決める……。金銭的な用意は十分にしてきた、何せ、冒険者ギルドを揺るがすかもしれない事態なのだ。ちょっと戦闘ができるだけの、無能な割に無用な正義感ばかり強い、政治的空気の読めない中堅冒険者パーティに消えてもらうだけ……。しかし今やウィレムは、彼のギルドの政治的立場を切り取って売り捌くことになりそうだと気づいていた。
「それで……」
 ウィレムは座り直して、消えかけていた威厳の炎をなんとか消さずに、いつのまにか椅子に戻ったタティオンに言う。
「一体なにを対価にお望みですか? 冒険者ギルドは、その華々しい評価とは裏腹に、あまり実際的権力を持たない。何か差し出せと言われても……」
 タティオンが片手を上げて、ウィレムの言葉を制した。そして足を組み、背もたれにたっぷりもたれかかって言い放つ。
「すべてのギルドは街と運命を共にしている。なあ、ウィレム君。そのパーティは始末する。その代わり、とあるアーティファクトをいただきたい」
 ウィレムは困惑した。
「え、ええと……それだけでいいのですか? しかし、あまり良いものは用意できませんぞ……? ダンジョンから回収された魔法遺物、アーティファクトは、そのほとんどを識別管理し、通し番号を振って、魔法科学ギルドに納めなければならないのですから……なかなか……」
 タティオンは笑う。彫像に彫り込まれたシワが綻び、人を信用させうる柔らかな表情が突然現れる。
「なに、魔法科学ギルドに納入する以外の、クズのようなものをいくつかもらえればいいのさ。要求する物品は、後日リストにまとめて送付するよ。では、安心して帰りたまえ、友よ。金槌級冒険者パーティ……たしか、あれは、男女5人だったな。大丈夫。十分暗殺可能だ。安心したまえ。今日は帰ってゆっくり眠るといい……」
 ウィレムは、安堵と共に、疲れ切った顔を晒しながら何度もお辞儀をしつつ、タティオンの執務室から出ていった。タティオンは、ふう、とため息をついて、体をふかふかした椅子に大きく沈め、眉間の辺りをもみほぐす。どうも最近は若い時のようにはいかない。疲れが溜まりやすい。
 暗がりから、一人の大男が現れる。若い。筋肉がはち切れんばかりに、黒いフロックコートを内側から破裂寸前に押し広げている。タティオンと同じくらいの背丈だが、頭髪はほとんどスキンヘッドに近いほどまで刈り上げていた。これほどに存在感のある人間が、光を絞っているとはいえ、さほど広くはない執務室に完全に気配を殺して潜んでいたことを知ったら、あの小心なウィレムは卒倒したかもしれない。タティオンと同じくらい低く響くが、若々しい力に溢れた声が、太い首にある分厚い声帯から絞り出される。
「冒険者ギルドも悪党ですね、父上」
 タティオンは目の当たりを揉んだまま、手をひらりとさせて答えた。
「そう言ってやるな、スタヴロ。人殺しを生業にする我らほどではないさ。奴らは生き血を吸うが、我々は血を流れるままにする。我々こそ最も無駄に血を流す悪党よ」
 スタヴロと呼ばれた精悍な若者は、先ほどの客人のことを思い返す。冒険者ギルドの帳簿係……そのような人間が、自分のギルドの弱みを引っ提げて、我が暗殺ギルドを頼りにくる……。内心ほくそ笑むくらいオイシイ仕事だった。
「父上、事態は上々のようで」
 タティオンは頷く。
「お前の代になったら、暗殺ギルドは大変だぞ、息子よ。何事も拡大期より、守りに入った時の方が煩わしく、足元をすくわれるものだ」
 スタヴロと呼ばれた大男は頷いた。ふと、風を感じた。部屋の中の光が増すのも。執務室の端っこにある窓の方を見ると、その理由がわかった。
「おじゃまーっす」
 先ほどまでしまっていたガラス戸が開き、カーテンが風に吹き流れている。暗い部屋に差し込んでくる光を背負って、縛った薄い色の金髪をなびかせる、赤い瞳の一人の若い女がいた。
「レカ! 窓から入るな! ボスに対して無礼だぞ!」
 スタヴロは額に青筋を浮かべて怒鳴りつける。レカは窓枠からヒョイと床に降りると、ニヤニヤ笑いを返す。
「うっせーなあ、あーしが正面から堂々と入れるわけねーだろ、スカタン! ちったぁお堅いハゲ頭が柔らかくなるといいなあ、スタヴロよぉ……」
 スタヴロの顔が真っ赤になる。泣く子も黙る暗殺ギルドの跡取りを、こうもバカに出来る人間は、この街に他にいない。
「貴様……っ!」
「いい。いい」
 それを笑って制したのがタティオンであった。
「レカだけは窓から入ることを許す。ご苦労だった」
 レカは少女っぽい笑みを存分に振りまいて、小躍りするようにタティオンに近寄る。
「へへっ……まあ、この程度の仕事ならさ、あーし一人で十分よ! ホラ、スタヴロ、受け取れ!」
 レカによって包みが投げられ、スタヴロがブスッとした顔でバシッと片手で受け取る。不機嫌そうに鼻を鳴らしつつ布を剥ぎ取ると、毛皮が血に塗れた獣人の頭部だった。
「……仕事はちゃんとしたようだな」
 スタヴロはぶっきらぼうにそう言った。タティオンが立ち上がって近づき、首を検分する。ワクワクと言った様子でそれを見るレカ。
「ふむ」
 耳の切り欠きは奴隷獣人を示し、独特な歪んだピアスは傭兵獣人部隊を表す。毛の刈り込みや生前に治癒した大きな傷跡は、歴戦の傭兵隊長であることを示している。ご丁寧に、飛び出た顎の牙の隙間には魔鳥の羽飾りも咥えさせてあった。タティオンはすぐにそれを標的のものと認識できたようだった。
「よくやったぞ、レカ。確かにこれは件の街区を占拠していた反乱部隊のものだ。しかし……」
 タティオンはレカの方に向き直る。レカも決して背が低い方ではない……むしろ、175センチの身長は、女性としては高い方だ。しかし、190センチのスラリとした精悍な老人の発するオーラは、実際よりもその身長差を大きなものに見せていた。少しだけたじろぐレカ。
「しかしだ、レカ。人の首を投げてよこすのは感心しないぞ」
 レカは視線を落として、弱々しく呻く。
「あ……ごめんなさい、おとーさん……」
 おとーさん。レカは暗殺ギルドのボスである、タティオン・ヴォルヴィトゥールをおとうさんと呼んだ。タティオンはレカの謝罪には構わず、しゅんとなっている彼女を見下ろしつつ、こう説教した。
「我々は死を売る。故に、死の価値は高く、神聖でなくてはならない。世界が始まって以来、そうであったようにな。当然ながら。しかし、戦争や内戦、虐殺、そして、血生臭いギルド同士の政争。そういうもののせいで、死の価値が下がることがある。たくさん死が生み出されれば、人々はそれに慣れてしまうからな。それだけは、我々は避けなければならない。……レカ、大事なことだぞ?」
 タティオンとレカの目が合う。全く同じ、赤い瞳だった。
「人の死を、軽々しく扱うな、これはギルドの戒律に関わることだぞ」
 レカはずっとタティオンの強い視線を見つめることができず、一瞬下を見て、綺麗な金髪をかきむしるが、すぐに顔を上げてタティオンを見る。
「わかりました、おとーさん」
 タティオンはそれを受け、ようやくレカに向けて氷のようだった頬を緩ませた。
「だがとにかく、よくやったレカ」
 その途端、レカの顔に浮かぶのは、年齢よりもさらに幼い印象を受ける、弾けるような笑顔。
「にしししし……もってーねーっす、ハイ」
 タティオンの声は幾分か優しくなる。
「冒険者ギルドにせよ、魔法科学ギルドにせよ、我が暗殺ギルドにせよ、傭兵ギルドとは関係が極めて微妙だからな。政治的に難しい状況だ。暗殺ギルドにとって、非公式な存在のお前が動いてくれて助かった」
「へへ……」
 レカの顔が少しだけ曇ったが、すぐに笑みが戻る。大好きな唯一血が繋がる人に、認められる瞬間なのだ。精一杯幸せを感じないと……。
 レカにタティオンの手が差し出される。レカはその手に目を奪われた。いつ見ても、戦慄すら覚える鍛えである。獣人よりも太く、分厚いその手は、拳にして突き出せば、石造りの家屋すら、造作もなく貫通させるだろう。脱力して伸ばした指ですら、人の四肢をちぎり飛ばすに十分だ。
「我が手を握れ」
 凶器そのもののタティオンの手に見惚れていたレカが、はっと我に帰る。
「……ウス」
 これから何が起こるか、レカにはわかっていたが、一息の躊躇もなく、気軽に握手するように、その手を握る。
 ガクン!
「うっ!?」
 途端に床に組み伏せられるレカ。直立して何も力を入れていないように見えるタティオンと、接しているのは手のひらだけ。まるで握ってすらいない。指も組まず、幼い子供の手遊びのように、手のひら同士が合わさっているだけだ。それでもレカは膝が折れ、床に向けて多大な重力を感じ、とてもじゃないが抵抗できない。それを間近で見ていたスタヴロが、興味深そうにヒゲが完璧に剃られた自分の顎を撫でる。
(父上のあれは誰も逃れられんな)
「ぐ……くくっ……ぐう」
 レカの身体能力は超人レベルである。屋根から屋根へ容易に飛び移り、この暗殺ギルドの塔も、あるいは街の中心の大時計塔すら、てっぺんまで一息に登ってしまう。戦闘における徒手格闘も、並の冒険者では全く相手にならないほどだ。事実、前日の獣人傭兵も歴戦の強者でありながら、自分に何が起こったかもわからずレカに殺された。しかし、それが、これだ。タティオンは全く力を入れずに、若き天才暗殺者レカを制圧していた。
「レカ。言いつけを守らなかったな?」
 レカは歯軋りするくらいに食いしばった顎からやっと言葉を絞り出す。
「は、はいぃ、ずびばぜん……」
 タティオンがほんのわずか手のひらをレカの方に傾ける。途端に、レカの背中に激痛が走り始める。
「あいいいいいい!?」
「まったく。レカ、我が愛しい娘よ。椎骨の間のバランスが悪すぎるぞ。また言いつけを守らなかったな?」
「うぐうううう」
 レカはもうたじたじだ。スタヴロですらやや同情を感じ、視線を逸らした。
「言っておいたはずだぞ? 無理はするなと」
 そう言うと、タティオンはパッと手を離す。急に解放されたレカは、ゼエゼエと荒い息をして、全身の痛みの余韻に耐えている。タティオンが、レカの両肩をパシン! と叩くと、それまでの苦しみが嘘のように、彼女はピンと立ち上がって呼吸が整った。……タティオンは、レカの体の反応を完璧に把握していた。レカは今のですっかり頭がしゃっきりして、ふざける気持ちも無くなっている。穏やかな、尊敬と敬愛と親愛と畏怖が全部いっぺんに混ぜ込まれた複雑な感情で、目の前の老人を見ていた。慈しみの目線と愛情の目線が、赤い瞳の間でやり取りされた。
「レカ」
 タティオンの穏やかに微笑む唇から発せられたのは、今日、一番優しい声だった。
「……最近少し無理をしていないか? 今体を見たら、かなり疲れているようだ。無理をさせすぎているかもしれん」
 レカは今までの少女のようなハニカミではなく、父からの愛情をいっぱいに感じる娘の笑みで、それに答える。
「大丈夫だよ、おとーさん」
 タティオンは笑った。
「なら、いい」
 そしてまた真剣な顔つきを見せる。レカもピリッとする。
「なあ、レカよ。今回も無関係な人間は傷付けなかったな?」
 レカは直立して腕を後ろに組み、胸を張ってあまりサイズの大きくないバストを強調して見せた。筋肉質で体脂肪率が低いせいだ。
「もちろんす」
「不必要な苦痛は与えなかったか?」
「一撃であれっすよ」
「姿を誰かに見られたか?」
「一瞬でやりやした」
 タティオンは笑みを浮かべた。
「なら、いい」
 レカは嬉しくなった。学校の勉強の出来を褒められた子供のように。つい甘えて、タティオンに寄りかかる。
「へーいっ! ……っへへ、ボスぅ〜! 次の仕事はなーんすかぁ〜!?」
 そのあまりの行儀の悪さ、父親への敬意のなさを見て、ずっと我慢して聞いていたスタヴロが吠えた。
「返事はハイだろうが! このバカ女がっ!」
 レカはタティオンに体重を預けたまま、横目でニヤつきながらスタブロを見る。
「ッケ、スタヴロさーん、現場に出る人間の方がえれーんだよー! オメーさんは書類と結婚して何年だ? カラダ鈍ってんじゃねーの? それからぁ、ちったぁ奥さんや子供の方も気にかけてやらねえと。仕事中毒もほどほどになあ」
 スタヴロの顔が一層険しくなった。これまでにないほど怒りを感じているようである。
「こいつめ……フン、小娘が。貴様など、所詮暗殺ギルドの鼻つまみものを集めて管理する愚連隊(フリークス)の管理役に過ぎんわ! あのゴミどもを任されていなかったら、お前をすぐに……」
「やめんか!」
 タティオンの叱責が飛んだ。スタヴロは慌てて口を閉じて姿勢を正す。レカはニヤニヤしながらも、流石に居住まいを正し、タティオンから離れ、スタヴロへ向けて慇懃な一礼をした。
「へえへえ、スタヴロ様のおっしゃる通りでございますとも」
 スタヴロはとにかくレカの態度が気に入らないようで、腕を組んで黙ってしまった。腹違いの、年齢の離れた兄妹。そこには複雑かつ解きほぐせない想いがある。その絡まった糸の中心にいるのは、彼らの父親、暗殺ギルドのボス、タティオン・ヴォルヴィトゥールだった。
「ふむ、まったく。ケンカはよせ、二人とも」
 その父親の言葉に,子供達は返事をしなかった。やれやれ、とタティオンは軽くため息をつき、ふとあることに気づく。
「レカ、手が汚れているじゃないか。拭ってやろう」
「えっ? 手?」
 困惑するレカ。思い当たるフシはないらしかったが、しかしよく見ると、暗殺者の黒いコスチュームの袖の部分が、赤黒く汚れていた。レカもようやくそれに気づいたようだ。
「いっけね、川で洗ったんだけどなー」
 タティオンは娘の手を優しく手に取り、袖の汚れを取り出した布切れで拭ってやる。されるがままのレカ。
「こういうものには気をつけろ。思わぬところから色々なことがバレる。お前はまだまだ脇が甘いな」
 レカはバツが悪そうに首を傾げて、恥ずかしそうに、
「へへっ、ごめん、おとーさん」
 と言った。
「ほら、これは……まったく、この娘は」
 タティオンがレカの頬に手をやった。突然のことにびっくりし、レカは頬が紅潮するのを感じる。しかしゴミがついているのを愛する父が取り去ってくれたのだと気づくと、微笑んだ。
「……これは絨毯の毛だな? 貧民街ではあり得ないものだ。わかったぞ? また、あの御曹司のところへ?」
 レカはイタズラがバレてしまったとばかりに俯く。
「……うん」
 タティオンはため息と共に、
「怒ったりはしないぞ、レカ。だが仕事の帰りに寄るのは考えものだ。レカ、なぜそんなことを?」
 レカの目が泳ぐ。もうまともにタティオンを見ることができない。
「その……すぐに癒しが欲しかったっつーか……ごめん、おとーさん」
 タティオンは少し鼻を鳴らして笑みをこぼし、少しかがみ込んでレカの肩に手を置いた。
「謝らなくとも良い。お前にはストレスの多い仕事を与えている自覚はある。フラストレーションの解放は自由にするといい」
 俯いていたレカが顔を上げて、訴えかけるような表情をした。
「で、でも、あーし……こんなんじゃ、ダメだよなー、と……」
 タティオンはじっと、このまだまだ未熟だが、やがて非常に強力な暗殺者に育つだろう娘のことを見た。品定めか、あるいは未来を占っているのか。
「レカ、テルーライン・アロエイシスは、おそらくお前がただの暗殺ギルドの便利屋ではないことに気づいているだろう。殺しに手を染めていることにも。ワシとお前との血縁関係こそ、まったく知りもしないだろうが……。レカ。どうして本気で隠そうとしない? お前なら完璧に血の臭いを消し去って、あの小僧を何も知らない友人にとどめることはできたはずだ」
 レカはこの日初めて、困ったような表情をした。
「どうして……っすかね」
 本当にわからないのだ。タティオンはしばらくその赤い瞳がウロウロと答えを求めて彷徨うのを見つめていたが、ふっと笑った。
「まあいい。お前があの若き貴族に、特別な想いを持っていることはわかる。ワシとロドヴィコくんは、むしろそう仕向けた向きもある。陰ながら、我ら暗殺ギルドと魔法科学ギルドは、協力関係を構築してきた。政治的には危険なことだ。傭兵ギルドを刺激するかもしれんからな」
 レカは歯を食いしばった後で、感情的になって大きな声を出す。
「わかってる! わーってる! そうだ、そうなんだ! あーしはテルに甘えてる……。本心では、あーしはテルを血生臭いギルドの争いに巻き込みたくない……! あいつも別に、ギルドの家業を手伝いはしても、積極的にその権力に噛んでいこうとはしていない。むしろ、むしろそうじゃなく……。あいつは、あいつは本当の善人なんだ。あいつのしたいことを、あーしは、手伝いたい。でも……でも……」
 タティオンは優しくレカを抱きしめた。レカの感情の乱れが、いっぺんに止んでしまう。タティオンの優しい囁きが、耳元でした。
「でも、自分の苦しみにも気づいて欲しい。そうだろう? レカ」
 レカはタティオンの抱擁からするりと逃げて、窓の方まで行く。
「へへ……おとーさんにはなんでもお見通しだ……」
 タティオンに背を向けたままそう言うと、普段は氷のような老人であるタティオンが、
「もちろんだとも」
 と、温かい力強さで肯定する。一部始終を見守っていたスタヴロが顔を逸らした。まるで何か、嫌悪感を催すものを見たように。
「さて」
 タティオンが仕事モードの声を出した。レカも一瞬で切り替えて、彼に向き直る。
「仕事の話だったな」
 タティオンはメガネを用意して、執務机に書類を広げ始める。
「近頃めっきり物覚えが悪くなってね、以前は全ての標的の情報を、頭の中だけで保存できていたんだが……。そう、こいつだ。この仕事は、ガズボもシャルトリューズも、愚連隊全員の力が必要になるだろう」
 一枚の、美しい筆記体で書かれたパルプ由来の書類が、鏡のように磨き上げられた執務机の上を滑り、レカの方に投げ出される。それを身じろぎすることもなく目線だけ走らせて読み取るレカ。
「金槌級冒険者パーティ……冒険者ギルドを襲うんすか」
 メガネ姿のタティオンは頷く。
「その仕事が大きなもので……あと、小さなものがある。大きな方は……厄介だな。凄腕の冒険者パーティが相手だ。無論、戦闘経験も豊富……。表の暗殺者部隊は出せないが、そもそも出しても歯が立たないだろう。お前のチーム、愚連隊全員で計画を立てることが必要になる。その前に、この簡単なのを片付けておけ。リリアの教会の話だ」
 レカはピンときたようだった。
「あー、テル坊と今度デートに行こうって言ってたんすよねえ。アイツが出資してるし。そこが、どったんすか? なんか問題でも?」
 書類を整理し終わったタティオンは、メガネを外してため息をつく。
「院長が汚職をしている」
 レカは、あからさまに口を大きく開けて驚いた表情をした。本当にコロコロと表情を変えるのだ、この娘は。特に、実の父親と、幼馴染みの前では。
「えっ、マジっすか。そのことは誰か知って……」
 タティオンが首を横に振る。
「いや、まだ疑惑の段階だ。お前に調べて欲しいんだ。レカ。テルーラインくんやリリアと仲がいいお前なら、怪しまれずに内部を調べられるはずだ。お前の表の身分は、暗殺ギルドの便利屋という位置付けだからな。殺しをしたことがあるようにも見えん。お前の天性の明るさ、人懐っこさ、図々しさがうってつけなのだ」
 父親からこうもいっぺんに評価を受けると、レカとしては流石に照れくさい。タティオンは、彼女にとって……。
(しかし……)
 しかし、レカの脳裡には、ある思いも去来する。
(……おおかた、リリアに内緒でずっと張り付かせている影の護衛が、何か掴んだんだろう)
 レカはそう思ったが、努めて考えないようにした。今は、唯一の肉親の信頼と愛情のため、精一杯働きたい。それしかなかった。レカは最高の笑みをタティオンに向けて、直立不動で命令を拝領する。
「かしこまりました! 暗殺ギルドボス直属特別特殊諜報員、愚連隊リーダー、便利屋レカ! 責任を持って、救貧院の闇を暴きます!」
 タティオンは本当に面白そうに歯を見せて笑った。
「素晴らしい。責任を自覚できるなら一人前だ。責任を負わない人間は半人前だからな」
 それを聞いたレカは、はにかんだような表情で、この部屋で唯一光を放っている窓へと駆け出す。
「おーっけーっす! じゃ、救貧院の件が片付いたら、愚連隊の馬鹿どもに仕事だって伝えますねー!」
「ああ、忘れていた」
 そのまま窓からひょいと出そうになるのを、タティオンが呼び止める。レカは怪訝そうに、窓枠に足をかけたまま部屋の方に顔を向けた。タティオンの表情は、心配しているように見えた。
「レカ、頭痛は大丈夫か?」
「え、よく知ってますね、言ってないのに……」
 タティオンの顔は、今までの室内の押さえた魔光灯と違って、窓から外の光を十分に浴びて、隠されたものすら露わになったように見えた。
(老けた……?)
 その印象に、レカは少し愕然としたものを感じるが、すぐに払拭する。
「ま、まあ……頭痛いくらい、別に……」
 タティオンは普通の父親が娘を心配するような声で、
「ひどければいつでも言え。魔法科学ギルドの最高の医療魔法なら、ロドヴィコの伝手で用意できる」
 レカが笑って、ありがと、おとーさん、と言った。カーテンがふわっと揺れて、執務室が途端に静かになった。タティオンは窓辺に近づき、静かにガラス戸を閉め、カーテンを戻した。再び執務室は闇の中に隠れたような印象になった。タティオンは、しばらくカーテンの隙間から、明るい外を見ていた。こことは別世界のような。なだらかな丘陵になっている街の上の方から、下界を見下ろす。塔を上がれば、もっともっと下界を見下せる。貧民街、商業区、歓楽街……そしてここからは真後ろになるため見えないが、富裕層の住む区画まで……。しかし、タティオンは、この塔の根本の屋敷から、無用に塔を登ることは好きではなかった。それは加齢による体力の衰えのためではない。窓を向いたまま、誰に言うでもなく、タティオンが言葉を吐き出した。
「自身に縁もゆかりも無い罪を引き受けて初めて人は真っ当になれる。しかしそれでいて、自分自身に咎のある罪をも忘れてしまうのが人間だ」
 スタヴロが前へ出て、タティオンの後ろ姿を見つめる。長男である彼にも、暗殺ギルドのボスの心根はわからない。さっきの、隠し子ではあるが実の娘には違いない少女との仲睦まじいやりとりも、どこまで本心なのか……。
「父上、この街の秩序は、陰に陽に、我々の手によってより正しい方向へと導かれています」
「そうだな」
 タティオンが窓の外から目を離さずに言った。
「私自身が鍛え上げた、一般暗殺者たちも、次々成果を上げています。それは治安維持すらろくにできない冒険者ギルドの政治的な役割すら、徐々に奪っているほどです」
「素晴らしい。……なあ、スタヴロよ」
「はい?」
「『我々』は無粋な殺しはしない。道から外れたりはしない」
 スタヴロはタティオンのその言葉の意味を少し考える。そして、残酷な真意に気づく。
「我々は、ですね」
 タティオンは振り返った。シワと銀の眉で縁取られた鋭い目には、赤い光が宿っていた。
「そうだ。それでも、あの娘のような存在は、我々の裏の部分として必要なのだ」
 スタヴロは少し薄寒いものを感じ、ごくりと唾を飲んだ。
「し、しかし……良いのですか? 彼女は……」
 タティオンは強い視線を伏せて、60代後半の年齢相応の疲労を感じさせる言い方で、愚痴を言い始める。
「……皮肉なものだな。ワシの魔の血を最も色濃く受け継ぐものが、正妻の子ではなく、男でもないとは」
「今の時代は個人の戦闘力の時代ではありません。このギルドの次の世代は、私の政治力と新たな暗殺者部隊で盛り立てていけますよ」
 タティオンはそれを聞き、窓の外へ改めて目を向けた。街ではなく、空の方へ。
「ああ。それもこれも全て、この街の秩序のために」
 魔界からか、人間界からか、わからない鳥が数羽、塔よりも高いところを飛んでいた。

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