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【新刊試し読み】石田美紀『アニメと声優のメディア史』「序章」を公開します!

12月21日に石田美紀『アニメと声優のメディア史   なぜ女性が少年を演じるのか』を発売します! これに合わせ、本書の「序章」の一部を公開します。

野沢雅子、小原乃梨子、田中真弓、緒方恵美、高山みなみ……などなど、少年を演じる女性声優を軸にアニメと声優の歴史をたどり、日本が独自に育んできたアニメと声の文化を描き出します。

みんなに愛される少年から女性が恋する青年までの女性声優を切り口に、アニメと声優のメディア史を考察した本書。ぜひごらんください!

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序章 少年役を演じる女性声優―リミテッド・アニメーションと声

1 先行研究と残された課題

少年キャラクターを演じる女性声優たち

 アメリカのフライシャー兄弟が一九二六年にトーキー短篇アニメーション『マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム』を公開してから、アニメーションのキャラクターもわたしたちと同じく声を得るようになった。彼らキャラクターに声を与える演技者は、日本では声優と呼ばれている。声優の声はアニメーターが描く表情や動きなどの視覚的側面と同期し、アニメーションのキャラクターを成立させるのだが、同期の方法は国や地域、時代によって異なる。例えば、アメリカのアニメーション制作では、声の録音は作画工程の前におこなわれる「プレスコ」が主流であるのに対し、「アニメ」と呼ばれる日本製アニメーションでは、声の録音は作画工程のあとでおこなわれる「アフレコ」が一般的である。このように、声優の声と視覚的側面を同期させる方法が選択され定着した過程と、また声優という職業が成立した経緯は決して単純なものではなく、それ自体、独立した歴史として記述すべきものである。

 二〇〇〇年代以降、国内のアニメ研究のなかで声優への関心は高まり、ラジオからアニメに至るメディア史的視座から声優の歴史を記述する研究が多数発表されている。その嚆矢になったのは、〇二年の森川友義と声優・辻谷耕史による論文「声優の誕生とその発展(1)」と、その翌年に発表された同じく森川と辻谷による論文「声優のプロ誕生(2)」である。この二本の論文は、一九二五年に開始されたラジオ放送から、多数の海外番組が吹き替えられた六〇年代のテレビ放送までを丹念に調査し、職業としての声優の成立とその変遷過程を描出した。声優史を研究する小林翔は森川・辻谷論文を踏まえ、七〇年代の「第二次アニメブーム」に注目し、「アニメ声優」の職能について論じている(3)。また、多くの声優にインタビューをおこなってきた藤津亮太は、アニメ声優の演技を舞台・映画・テレビでの俳優の演技と比較し、その特性を明らかにしている(4)。このように着実に声優研究は進んでいるものの、声優という職能に関連する幅広い領域には手つかずのもの、あるいは十全に考察されていない論点が数多く残されている。

 その一つが、少年役を演じる女性声優の存在である。アニメで女性声優が少年役を演じることは珍しくない。『ドラえもん』(一九七三年。のち、七九年から再度アニメ化)の野比のび太(太田淑子〔一九七三年〕、小原乃梨子〔一九七九―二〇〇五年〕、大原めぐみ〔二〇〇五年―〕)、『ドラゴンボール』(一九八六年―)の孫悟空(野沢雅子)、『ONE PIECE』(一九九九年―)のモンキー・D・ルフィ(田中真弓)、『∀ガンダム』(一九九九―二〇〇〇年)のロラン・セアック(朴璐美)、『NARUTO――ナルト』(二〇〇二―〇七年)のうずまきナルト(竹内順子)、『妖怪ウォッチ』(二〇一四―一八年)の天野景太(戸松遥)……。

 有名作に限ってみてもきりがないほどに、女性声優はファミリー向けからマニア向けにわたる多種多様なジャンルで少年の声を演じてきた。だが興味深いことに、ディズニーの長篇劇場作に代表されるアメリカのアニメーションでは、女性声優が少年役を演じることは、声優の配役の慣習として定着していない。まずは、この事実を日本とアメリカの事例の比較から確認しておこう。

2 『ピノキオ』と『鉄腕アトム』

 カルロ・コッローディの小説『ピノッキオの冒険』(一八八三年)の翻案である、ディズニー映画『ピノキオ』(一九四〇年)は、人形細工師のゼペットが作った男の子の人形ピノキオが、ブルー・フェアリーに命を吹き込まれて人間になり、ゼペットの息子になる過程を語る。人形が人になるこの物語は、描かれたものにすぎないキャラクターを、まるで人間のように息づかせる表現であるアニメーションの本質に関わるため、アニメーションとは何かを考えるうえで格別の意義をもつのだが、この作品は日本のアニメの黎明期とも深く関係している。

 アメリカを中心とした連合国による占領が終了した直後の一九五二年五月に、『ピノキオ』は日本で公開された。マンガ家の手塚治虫は『ピノキオ』を熱心に鑑賞し、マンガ版『ピノキオ』(東光堂、一九五二年)を発表した。さらに同年、手塚は、自身の『ピノキオ』ともいえる、息子を亡くした博士が作ったロボット少年アトムを主人公とするマンガ『鉄腕アトム』(光文社、一九五二―六八年)の連載を始め、同作品を連続テレビアニメとして制作し、六三年に放送を開始した。つまり、手塚はディズニー映画の受容経験を自らの血肉としたマンガ家であり、アニメ制作者であった。
 とはいえ、『ピノキオ』と『鉄腕アトム』は、視覚的にも聴覚的にもまったく異なる作品である。

リミテッド・アニメーション

 連続テレビアニメ『鉄腕アトム』(一九六三―六六年)が採用した作画様式は、『ピノキオ』をはじめディズニー映画が実践する「フル・アニメーション」とは異なっていた。映画は一秒間に二十四コマの速度でフィルムを上映し、連続した静止画を人間の目に動いて見えるようにする動画術である。したがって、二十四コマすべてに異なる絵を描くことを目指す様式「フル・アニメーション」が生まれた。ただし、ディズニーも一秒二十四コマのすべてに異なる絵を描くことはまれであり、一秒十八コマが平均的といわれている(5)。一方、『鉄腕アトム』をはじめ日本の連続テレビアニメは、同じ絵を三コマ分使用して一秒間に八枚ですませる三コマ打ちを主体とする「リミテッド・アニメーション」を実践している。

 動画枚数を削減するリミテッド・アニメーションが『鉄腕アトム』で選ばれたのは、毎週新作を放送する連続物の制作はコストの徹底管理によって、ようやく実現できるものだったからである。経済的・技術的限界を見据えたリミテッド・アニメーションは、フル・アニメーションと比べて劣ったものだと見なされがちだった。しかし、アニメーション研究者の顔暁暉が指摘するとおり、運動を制限することは運動を厳密に選ぶことであり、創造性に富む行為である。顔は運動の乏しさが批判されてきた『鉄腕アトム』の演出を分析し、セレクティブ(選択的)という語を用いてその特徴を再定義し、リミテッド・アニメーションの劣位を否定している。例えば、『鉄腕アトム』で自動車が猛スピードで走るさまを描写するときには、自動車の絵を速く動かすのではなく、背景を動かし、さらに自動車と背景の間に運動の方向を示す線を描き込んで、高速移動の感覚を表現している。「運動線」と呼ばれるこの技法はマンガで広範に使用されてきたものであり、『鉄腕アトム』によってアニメーションに持ち込まれたあと、「アニメ」の手法として定着していった(6)。

声の機能

 顔はまた、「運動が限定されているアニメーションでは、音響が物語の展開上非常に重要な役割を果たしている(7)」とも指摘している。キャラクターに声が与えられることで、描かれたにすぎない身体をもつ彼/彼女もまた、わたしたちと同じく内面という奥行きをもつに至るということだ。

 例えば、『鉄腕アトム』の第一話「アトム誕生の巻」では、天馬博士は息子の亡きがらを抱きながら慟哭する。そのとき、絵は動かずとも、声は博士が全身で感じている嘆きを表現することができる。こうした表現はマンガでは不可能であるため、たとえ動きが慎重に選択されていても、やはりマンガとは異なる視聴覚的表現になる。また、ナレーションを用いれば、声は語りそのものを作り出すこともできる。すなわち、絵が常に動いているわけではないリミテッド・アニメーションだからこそ、声の重要性は増すのである。

 実際、『鉄腕アトム』のアニメーターたちは声の機能を意識して作画していた。黎明期から虫プロダクションを支えたアニメーターの山本暎一は、一九八九年に上梓した小説形式の回顧録『虫プロ興亡記』で、『鉄腕アトム』のために生み出された「動画枚数のかからない、動かしかたのパターン」を列挙している。そのなかで、キャラクターが話す顔を提示する際に口だけを動かす方法について、次のように述べている。

6 口パク セリフをしゃべる演技は、顔をトメにし、口だけ、5〔前項の5で山本は身体の一部分だけを動かすことを述べている:引用者注〕の応用で、部分的に動かす。しゃべるときの口のかたちは、本来、いろいろあるが、閉じたのと、大きく開いたのと、中間のと、三種類だけにし、三コマ撮りでランダムにくりかえす。これだと、動画が四枚あれば、いくらでも長ゼリフが可能になる(8)。

 山本の作画指南でとくに興味深いのは、「動画が四枚あれば、いくらでも長ゼリフが可能になる」という箇所である。そこには、キャラクターの身体の動きを単純化することと、物語におけるキャラクターの声の重要性との相関関係が示唆されている。単純な口の動きしか描けないから、短いセリフにとどめるのではない。単純な運動の繰り返しならいつまでもできるので、「いくらでも長ゼリフが可能になる」のである。この逆転の発想に、アニメが大人も楽しめる、複雑で、屈折に満ちた物語を語る媒体として成長した理由の一端がうかがえる。

 アメリカのアニメーションの場合、ディズニーはもちろん、ディズニーとは異なる映像を志向したフライシャー作品でも、キャラクターの口の動きは人間が発話する際のそれを再現しようとする。トーキー技術と映像の関係に着目した細馬宏通は、一九二〇年代末以降のアメリカで実写映画とアニメーション映画の双方が声と口の同期、すなわちリップ・シンクを追求し、画面上の身体から声が出る驚きを観客に与えてきたことを論じたあと、「現在の日本のアニメでリップ・シンクが実現されていないことのほうが、アニメーション史では例外的なできごとなのだ(9)」と述べている。事実、リミテッド・アニメーションの先駆者であり、手塚も多大な影響を受けたアメリカのUPA(United Productions of America)の作品でも、キャラクターの口の動きは日本のアニメの「口パク」よりもずっと複雑である(10)。

 制作経費削減の象徴ともいえる「口パク」だが、アニメではキャラクターの心情を声で視聴者に直接伝える重要な機会として利用されていった。もちろん、そのためにはキャラクターは長ゼリフに足る内面をもつものでなければならないし、またそうしたキャラクターが息づく物語世界も確固として存在するものでなければならない。そして何よりも、繰り返しにすぎない口の動きによって長ゼリフを聞かせるには、質が高い声の演技と、それを遂行できる声優が求められる。

※注
(1)森川友義/辻谷耕史「声優の誕生とその発展」、メディア史研究会編「メディア史研究」第十三号、ゆまに書房、二〇〇二年
(2)森川友義/辻谷耕史「声優のプロ誕生――海外テレビドラマと声優」、メディア史研究会編「メディア史研究」第十四号、ゆまに書房、二〇〇三年
(3)小林翔「声優試論――﹁アニメブーム﹂に見る職業声優の転換点」、日本アニメーション学会編「アニメーション研究」第十六巻第二号、日本アニメーション学会、二〇一五年
(4)藤津亮太「声優論――通史的、実証的一考察」、小山昌宏/須川亜紀子編『アニメ研究入門[応用編]――アニメを究める11のコツ』所収、現代書館、二〇一八年
(5)トーマス・ラマール『アニメ・マシーン――グローバル・メディアとしての日本アニメーション』藤木秀朗監訳、大﨑晴美訳、名古屋大学出版会、二〇一三年、九七ページ
(6)顔暁暉「セレクティブ・アニメーションという概念技法――﹁リミテッド・アニメーション﹂の限界を超えて」、加藤幹郎編『アニメーションの映画学』(ビジュアル文化シリーズ)所収、臨川書店、二〇〇九年、二八一―二八二ページ
(7)同論文三〇二ページ
(8)山本暎一『虫プロ興亡記――安仁明太の青春』新潮社、一九八九年、一〇六ページ
(9)細馬宏通『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか――アニメーションの表現史』(新潮選書)、新潮社、二〇一三年、二二一ページ
(10)UPAの短篇映画Gerald McBoing-Boing(一九五〇年)は、平面的なキャラクターデザインや図案的な背景を採用している点で手塚的だが、言葉以外のあらゆる音を出す主人公の少年の口の動きは、山本が述べる口パクではとても表現しきれないほど複雑である。なお、UPAは、一九四一年にディズニースタジオでストライキを起こし、ディズニーを解雇されたアニメーターたちが四四年に結成したスタジオであり、リアリズムを重視するディズニーとは異なる、平面的で簡略化された様式であるリミテッド・アニメーションを編み出した(前掲「セレクティブ・アニメーションという概念技法」二五四―二六〇ページ)。四一年のディズニーでのストライキについては、以下を参照されたい。トム・シート『ミッキーマウスのストライキ!――アメリカアニメ労働運動100年史』久美薫訳、合同出版、二〇一四年

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