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鍋のことと息子のこと

妊娠してから、とたんにやれることが減り行動範囲が狭くなってしまった私に、「気分転換に行ってきたら」と夫が勧めてくれた銅鍋を作るワークショップに参加した。

内容から産後1ヶ月の体には少しハードかなと思ったけれど、行く途中のドライブで見た、夏の残りの青々とした風景がかえって私に力をくれるようで、思い切って外に出てよかったと感じた。
そういえばこの1週間ほど前、何かの用事で出たときは、まだまだ私は枯渇していて、大濠公園のお堀沿いに生えるいきいきとした雑草を目の端で見ながらなぜかやたらと感動し、きついときや、つらいときに見る世界は暗く見えるのかと思っていたけれど、むしろ遠くに光り輝いて感じられるものなのだな、とぼんやりとした頭で思っていたのを覚えている。

会場はとあるリフォーム会社の作業場で、そこに先生がご自身の工房がある新潟から運んできた丸太の台が置かれ、その上に半分に切れた木型と木槌、座布団が敷いてあった。

道具(手前)と鍋のサンプル(奥)

参加者はたまたま私を合わせて女性が3人だったこともあり、簡単な説明のあと、地べたでひたすら銅板を叩く風景は、メキシコなどで見た山奥に住む民族の女性たちが家庭内で民芸品を作る風景のようで、クーラーのない作業場で久しぶりの汗をかきながら、なんとプリミティブな作業なのかと、心が躍った。

また作業を進めるうちに、「鍋とはなんとシンプルな造形だろう」と思った。平らな板に一度でも木槌を落とし、くぼみができれば、それはすでに器(鍋)となる。二度目以降は何度でも、理想の形を求めるための作業であり、つまり基本的には、ただの凹みのようなどんなに小さく粗野なものであっても名器のようなものであっても、水が溜まれば、器であり鍋なのだ。
また同時に作業中はけたたましい音が出るが、それはまるで楽器を鳴らしているとさえ言えばそうも見え、音楽ともほとんど境目はないようだった。

作業前、真っ平らな銅板(片面が錫メッキで銀色になっている)
途中経過、まだどんな形にしようか迷っていたとき。


途中経過、鍋の裏側、この辺りから楽器感出てくる。


計4時間ほどの作業の途中、あっという間に、まるで学生時代に戻ったように無我夢中で作業に打ちこみつつも、ふと頭に毎日何度も私の乳首を吸う我が子の顔がよぎった。それは「愛おしさ」という言葉がもつ穏やかで温かな印象とはまた違った、むしろなぜか自分の体のパーツに改めて意識が向きハッとするような、どちらかというと奇妙とも言える感覚だった。

もちろん彼も私を、言葉どおりに「待って」はいないだろう。ただ私と彼は、互いに顔も知らない時期から繋がり、お互いの動きを感じ取り、食を共有していた。体はそれを常態化していて、ワークショップが終わる頃には、私のTシャツは汗と乳でぐっしょりと濡れていた。

帰宅して私は存分に乳をやり、彼はそれを受けた。

完成
豚バラキャベツのもつ鍋風



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