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最近、50歳になりました。

 50歳になってから二週間ほど経ってるけど、今夜は夫が新年会で飲みに行っているので、この機会に何か書いておくべきな気がしてnoteを開きました。
 本当は、書く習慣というのは大事だと思っていて書きたいとは思っているのだけれど、なかなか習慣化するってことが私には難しいし、しばらく離れると何書いたらいいかわからなくなる。

さて、50歳とは

 これは20歳になった時も30歳になった時にも思ったことだけど、もっと大人になれてると思ってた。10代の頃は20代の人が、20代の頃は30代の人が、私にはとても大人に見えていたし、これが50でも似たような感じだ。
 しかしながら一方で、この年齢になってくると、年上のロールモデルの中には「大人」と「老害」が混じり合ってくる。老成と老害の違いについても考えるようになった。

50を前に、私がやってきたこととはなんだったのか

 私は昨年、初めて盆栽を習って今年の正月には松竹梅の盆栽を飾った。
 盆栽を教える資格を持ってる人が、破格の値段で教えているのにたまたま出会ってしまって教わった。

盆栽の写真撮り忘れてた。これは梅の花が一つ、落ちたところが綺麗だと思って思わず撮ったやつ。

 専門的な知見を安く分けてもらえる、教えてもらえるのはありがたいけど、どうしてこういう講座を僅かな人しか受けられなくて、また値段も安いのかなと思うとなんだか悲しくなったりする。どうして日本が誇るべき文化の価値がこんなに低いのか。


 また、昨年から新しいネットゲームを始めた。日本人の少ない洋ゲーというえこともあり、ギルドを数箇所移動したが、今はアメリカ人のチームに落ち着いている。チーム内の会話は英語が基本だが、他にもフランス語ロシア語ドイツ語スペイン語ポーランド語とあらゆる言語で話す人たちがいて多様性が満載だ。私は挨拶程度しか喋らないのにランキングでいつもそこそこの位置にいる人なので、何考えてるのかわからない気味の悪い日本人と思われているかもしれない。いや、誰も私のことなんか気にしてないかもしれない。

 でもネットゲームの世界では、まるで日本語の通じない外国人でも、日本のアニメキャラやニンジャをアイコン画像に使ってたりユーザーネームに使ってたりする。
 私は二十代の頃はフラメンコを習っていて、時にフラメンコの専門誌でライターしたり日本のカルチャースクールでフラメンコ教えたりする仕事もしてて、何度かスペイン行ったこともあったけど、スペイン人から「karate好き」「sake好き」とか言われた時の安心感思い出す。
 こういう擬似留学感というか、異文化交流ってものを安価にナチュラルにできる時代になってるってほんとすごいなって思う。

人生、100年時代ってなんだっけ

 人生100年時代とか、しばらく前にはよく聞いたけど、最近聞かないフレーズだと思う。
 人生100年なら私は今、折り返し地点だけど、うちの両親は60半ばで二人とも亡くなってるし、個人的には今もう後半だと思う。なんなら明日死ぬかもわからんレベル。
 まあ人間、死ぬ時は死ぬ。

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