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読書感想文。『その女アレックス』

 この本の表紙、怖いなあ…。

 子供の頃、うちに泊まりに来た人に「この部屋怖い」と言われたことを思い出す。
 当時小学生だった私の部屋の本棚には、名探偵ホームズや怪人二十面相シリーズがぞろりと並んでいた。血塗られた事件のタイトルが並ぶさまは彼女からすると、背表紙だけでもおそろしかったようだ。

 なぜそんな本棚に仕上がったのか、私が親におねだりした記憶はないし(そもそも滅多におねだりしない子供だった)。多分図書館の廃棄本だか、近隣の人が処分したがっていたものを親が貰い受けてきたとか、そんな経緯だったと思う。ともあれ自分が気に入ったから並べていたことには違いないけれども。

 今もサスペンス要素のある創作作品は好きだけど、SNS社会になってからというもの、エログロ描写が苦手な大人が世の中には少なからずいることも承知してきて、なんで私は幼い頃からこういうのが好きだったんだろう、ってことを時々考える。
 当時はまだ子供だったから、殺人事件なんて非現実的なことにしか思えていなかったのに加えて、コナンドイルや江戸川乱歩は外国人だったり少し昔の時代の人だったので、生身の自分との距離感がありすぎて、ほとんどお伽話のように感じていた気がする。その一方で、ホームズや明智小五郎のようなこれまた非現実的な名探偵が鮮やかな活躍を見せて、事態をfixしてくれるという安心感もあったかもしれない。

 ちなみに同じような理由で数年前にハマりまくったのがドラマ『クリミナルマインド』だった。①アメリカのドラマゆえに自分と距離感があり、リアリティがあるんだかないんだかはっきりわからないため童心にかえって見ることができる ②名探偵の替わりに出てくるのは優秀なFBIのチームだが、みんな真剣に仕事をしててかっこいい ③スピーディな展開、殆どの事件が一話で完結しほぼ毎回事態がfixされる
 あれはほんとはまった。

 こう考えると、逆に幼い頃からこういうのが怖い人っていうのもなぜなんだろう? 身近で殺人事件が起きた人なのか、名探偵や優秀な捜査チームに活躍されると困る立場の人なのか? と勘ぐりたくもなるけど、実際に私にそれを言った人の部屋には少女漫画が数冊並んでいて活字の本は存在せず、壁にはジャニーズアイドルのポスターがいくつも貼られていた。キラキラが好きでキラキラに耽溺したい人は、ドロドロの世界を見たくないのかなあ…。あ、だからジャニーズの裏側のドロドロは長年見てみぬふりをされ続けているのか!そうなのか!?

 私は昔からこういうのを平気で読んではいるんだけど、弱者が痛めつけられるような話は読んでいて辛くなるなあとも思う。だって弱者は弱者なんだから、およそ勝ち目がない。人は人の絶望に共感することにそうそう耐えきれない。もっと言えばそんな話、聞きたくもないわけだ。キラキラが好きな人がこういうのを厭う気持ちもなんとなくわかる。

これはレジリエンスの物語

 前作で被害者遺族となった警部のカミーユは、数年間病院に入りもはや復職は不可能とも噂される中で奇跡的に職場復帰したという設定だ。それでも、誘拐事件だけは勘弁してくれということで、誘拐以外の事件のみを扱っていたところ、この事件に半ば無理矢理引きずり込まれて、紆余曲折しながら職業人としてのメンタルをようやく取り戻す。カミーユはただでさえ孤独であったところ、ようやく得た家族をこの上なく残虐な形で犯人に奪われたという悲劇の登場人物だ。こんな人、社会復帰とかできんの? ありえる?
 しかし折も折、先日の311でNHKのドキュメンタリー番組なんか見てたら、ただの被害者でしかない異常な状況から這い上がって生き抜く人間というのも確かに存在するのかなとも思う。世の中には、私が知らないだけで、カミーユ並の恐るべき光景を目の当たりにさせられながらもなんとか生きてる人がいるのかもしれない。逆にいえば、立ち直ることができずに死にゆく人もいるとも思う。

 ここで描かれているのは、尋常じゃないレジリエンス能力の持ち主であるカミーユの物語。

 もう一人の主役、アレックス。
 彼女は物語冒頭から胡散臭い。都市部で暮らして日常的にウイッグを取っ替え引っ換え、転職と引っ越しを繰り返すことを楽しんでいて、「私はFacebookなんかじゃ見つからない」なんて言ってみたり。まるで自分の素性を知られることを恐れているかのようだ。
 最初から逃亡中の人間のような様相のこの人物が、一体何をやらかしたために拉致されたのかは疑問だったけど、何をしたにしてもあんなに残酷な拷問にかけなくてもいい。また、恐ろしい状況に追い込まれてもなお生きることをやめようとせず、逃げようとか戦おうとか頭の中で繰り返し唱えているような様子は凄まじかった。生命力半端ない。
 序中盤でアレックスが檻に閉じ込められてネズミと戦う様子は圧巻で、最後まで読み終えて思うことは、あれはどんなに痛めつけられても自分が例え死んでも、相手に一矢報いるまではくたばってたまるかという執念だったのかな。ただ単に逃げたい生き延びたいと言うよりは、どこかに行こうとしているかのようなアレックスの心情に煽られて、ページを繰る手が止まらなかった。

 これはどこか願望の話であり、絶望の話であり希望の話でもある。

これは被害者が被害を乗り越えようとする物語

 警部カミーユは前作で、ようやく出会えた自分の生きる全ての意味を肯定してくれるかのような妻を失う。同時に胎児も失う。前作の犯人は本当に不快だったが、その犯人に対する恨み言がカミーユからは一切出てこない。カミーユはあくまで、家族を失った自分のありようと、仕事中に起きるフラッシュバックとのみ戦っている。(あれだけのことをしたのにカミーユに存在を無視されている前作の犯人もざまあねえなとも思う)
 カミーユは、助けられなかった自分の妻子の替わりに、アレックスを救済することで立ち直ろうとしている節がある。

 またアレックスが自分を虐待した相手に復讐したかったであろうことはいうまでもないが、悲しいのが、アレックスは大人になり殺人犯となるまで復讐をできなかったし、アレックスが殺人者にならなければ彼女を虐待した奴らが断罪されることは決してなかったであろうということだ。

誰が被害者で、誰が加害者なのか

 この物語は、判事の言う「まあ、真実、真実といったところで…」「われわれにとって大事なのは、警部、真実ではなく正義ですよ」というセリフで終わる。全ては判事様のご気分次第というわけだ。この件は、それでいいのかもしれないけど、いや本当にそれでいいのかなとも思う。権限を持つもののこうした恣意的な運用によって庶民が得られる利益って、果たしてどれだけあるのかな。
 実のところ、日本でも多くの裁判官や調停員が事実よりも「自分の思う正義」を優先して法的な裁決を下すことを私は経験的に知っている。彼らは事実を確認することよりも、自分が理想とするイメージを優先する。きっと彼らの部屋の壁にはジャニーズかグラビアアイドルのポスターでも貼ってあるんじゃないかな。

 それにしても、現実にアレックスのような過酷な虐待を受けてきた人間が、自分に加害した相手をピンポイントに次々殺害するシリアルキラーと化した時、日本の司法はどのような判断を下すのだろうか? 私の能力では似たような実例がみつからない。
 ふと安倍晋三を銃撃した山上容疑者を思い出した。彼の公判が始まれば、否応なしに日本人はその判断を試されることになるだろう。日本には欧米のような陪審員制度がないから、一般人の持つ倫理観は法的裁決に採用されないし、上から目線の法曹が決めつけた結論をただただ受け入れることしか許されていないけど。全く、裁判員制度ってつくづく中途半端な制度だ。

 誰が被害者で、誰が加害者なのか。

ほっこりするエピソード

 最後に。前作から通読して最も印象に残ったのは、警察チームのキャラクターの個性がそれぞれ面白かったことだ。端的に書けばチビにデブに貴族に貧乏人と、コンプレックスだらけの癖の強い人ばかり。けれどもただただ嫌なだけの奴もいなければ完全無欠のヒーローもいない。そういう性格だからこそこうなった、といったところも仔細に書き分けられていて、残酷な物語ながらも人間愛の感じられるところがこのシリーズの魅力かもしれない。

 特にしみったれの乞食みたいなキャラで軽蔑されているが仕事の緻密さはすごい、的なキャラのアルマンが、一体何のために金をため込もうとしているのかは私も少し気になっていたんだけど、まさかカミーユとカミーユの母親のために大枚叩くとは。そうきたか。
 事実の探求と芸術へのリスペクトのためなら、時間にもお金にも糸目をつけない奴だったのかいアルマン。もらいタバコばっかしてんのにあんた。
 そんなところにフランス人のプライドのようなものも感じつつ。

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