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誰のことも幸せにしない社会

誰のこともってわけじゃないかも知れません。幸せな人はいると思うし。でも、大概の人は幸せじゃないんじゃないでしょうか?この社会の枠組みの中では。

働くことは、うまくいけば生きがいややり甲斐や張り合いに繋がるし、現に今私は働いている時間は好きです。

でも、それが生まれて来てまでやりたかったことですか?と聞かれると、答えはNO。とは言え、あなたのやりたいことは何ですか?と聞かれても、答えに詰まってしまうのです。自分が全然わからない。

この私が「やりたい事が分からない族」になるなどとは、若い頃は思いもしませんでした。自分は目的意識に溢れていると思い込んでいましたので。

あながちそれは間違いではなかったのですが、日々生き抜くことと将来への不安で一杯いっぱいになりながら、自分の人生の目的を見いだせる人というのはそう多くはないのかも知れません。

だから思うんですよ。最低限、生きていくぐらいのことは、社会が保障してくれないかなあって。それは即ち、ベーシックインカムってやつになるんですかね。(この単語を出しちゃうと、経済学とかに詳しい人から怒られちゃうのかな〜と思ってずっと言えずにいたんですが、まあ、でも言っちゃう。)

その上で、もっと贅沢したいとかのし上がりたいとかチャレンジしたいという人は、もちろんどんどんやればいいわけで。

それに生きるのに困らなくなれば根源的な不安がなくなって、ふっと本当にやりたいことが湧いてきそうだし、無理して嫌な人間関係にしがみつく必要もなくなりそうです。もっと自分の気持ちに素直になれる。

新型ウイルスで社会がゴタゴタしている様を見ていると、この混乱がうまいこと社会をもっと生きやすい方向へ転がしていっていってくれないかなあと思うんです。

ここ一週間ほどは子供の休校に伴って会社を休んでいたんですが、この間、久しぶりに通勤電車に乗りましたらいつもより少し空いていました。余裕があった。それで、できるじゃん、て感じたんですよね。また元に戻るのかもだけど。

誰のことも幸せにしない制度とか枠組みとかは思い切って取っ払って、もっと一人ひとりが楽で幸せにいられる世界になっていかないかなあって願っています。

でもこういう夢想って、あながち何の意味もないわけではないという気もするんですよ。

だって、自分のお祖父ちゃんお祖母ちゃん、父母の時代よりも今は明らかに恵まれているし、それって人類の「もっとこうだったらいいのに」という願いの賜物ではないでしょうか?

その昔、「無添加」とか「オーガニック」という言葉を殆ど見かけなかった時代、私はそれを気にしていましたら、なんかその後すぐにバーッと世の中に広まっていったということがありました。

あと、旦那と知り合って、しょっ中お茶するようになった途端(スウェーデンにはfikaといって、一日の中でちょいちょいお茶する習慣があります)日本にもカフェ文化が広まっていきました。

偶然と言えばそれまでだけど、意識の働きのなせる技かも知れません。

だからどんどん願って、心に描いていこうと思います。

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