コミュ障ではないはずだ

昨日は小学校の役員会に行ってきた。久しぶりの大人数で緊張した。こういう時、誰とでも笑顔で如才なく振る舞える人はすごいなあと改めて思う。

ボーッとしているうちに、全然知らない人たちと一緒のテーブルしか空いていないことに気がついた。仕方なく座ったものの、たちまちどうしていいか分からなくなってしまう。全員が知らない者同士ならばいいのだが、私以外の三人は仲が良さそうだったから。みんな、さり気なく居心地のいいポジションをちゃんと確保しているのかと思うと、何とも言えない気持ちになった。この年になっても、学校の続きみたいだ。

昨日は最後の役員会だったので、仕事というよりはお疲れ様会みたいなものだった。目の前に用意してあるお菓子をつまみながら、お話しましょうというのだ。困る。親しい人たちの会話に割って入るのもそうしないのも、どちらもおかしい気がした。

コミュ障って言葉が昔からあったら、私は自分にそのレッテルを貼ったかも知れない。でもなかったので、コミュニケーションで生きづらさを覚えるたびに、「うーん、困ったな。早く終われ。」と念じながらだましだまし生きてきた。それに、時と場合によっては何故かうまくやれることもあるのだ。

しかし人の話が途中で理解できなくなることが多くて困る。単純に聞こえなくなる時もあるし、本当に意味が分からない時もある。一対一なら聞き返せるけど、人数が多いと話の流れを遮ることになってしまう。

少なくとも昨日の集まりの中に、私と同じ生き物はいないようだった。こういうのは年ばかり取っても直らない。もういいか、どうでも。

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