回顧録 あの紀三井寺の夏3

第103回全国高等学校野球選手権大会は
智辯学園の兄弟対決で智辯和歌山が夏3回目の優勝で閉幕しました。コロナ禍で無観客試合出場辞退雨天順延と異例の開催の中何とか閉幕し高野連は胸を撫で下ろしているだろう。 と思いつつまた昔に思いを巡ると山口哲治が近鉄に指名入団し逆転のPLが夏制覇した78年は始めて春夏甲子園の外野席に行った。もちろん5万人の決勝戦では無かったがやはり甲子園の迫力に圧倒されたが箕島や銚子商 高知商の大漁旗
やあのPL学園の人文字も無かったが。
この年はPL学園を応援していたが地元の箕島高校もなかなか強くセンバツ優勝メンバーが抜けた後の下級生の新チーム石井嶋田のバッテリーが4期連続出場し79年春夏連覇田舎の公立高校が野球留学もなく快挙を成し遂げるのだ。特に星稜高校との死闘は未だに語られる名試合だった。ナイター
の甲子園のスタンドに入った森川選手のホームランの前の2アウトからの転倒落球
あれが今日までファンを痺れさす高校野球の魅力ドラマだと思う。そして全国制覇で国体も負けずに終わった箕島を目標にその年和歌山市南部に創部したのが智辯和歌山
奈良県五條市にある智辯学園が文武両立の進学校としてスタートし藤田氏の全国制覇の箕島を倒して悲願の全国制覇をと高嶋仁監督の元野球部がスタートした。初めて見た智辯和歌山はあの山口哲治の智辯学園のユニフォームそのままで校歌にある茜色が鮮やかカッコ良かった。何故か選手も他校に比べて大きく威圧感があった。しかしその見た目とは裏腹に和歌山県予選では箕島高校に立ち向かうまでしばらく時間を要した。箕島高校と県予選で対戦するまで5年
県和歌山商 南部 吉備と甲子園でも勝利がありプロ野球選手も輩出している学校に早い段階で苦杯していたのである。そして
5年目から何年も箕島尾藤氏の野球にやられ直接対戦がなかった大会で優勝し全国大会に初出場したのちも箕島には勝てず12年の月日を要したのである。今日のラジオ中継の解説で高嶋仁さんが語っていた相手チームから見たらいやらしい野球を等々打ち破ったのはフルスイングの打撃のチーム
だった。全国でも箕島や広島商の緻密な野球を打ち破ったのが蔦池田中村PL学園の
4点取られたら5点取れと言う野球で金属バットと度重なる甲子園のスタンド改修により打ち勝つ野球が主流となったのである。和歌山県大会に於いても昭和は箕島
平成は智辯和歌山と言う図式で打倒箕島から打倒智辯和歌山となり黄金期を迎える
のだが智辯和歌山も甲子園では箕島高校のように簡単に勝てなかった。地元では箕島でないと甲子園では勝てんとしばらく言われていた。

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