回顧録 あの紀三井寺の夏5

訂正 4で触れた校名 横浜→帝京 でした。 筒香選手の話題を別記事で書いていたので間違えてしまいました。だから帝京の話題から書き始める事とします。
 智辯和歌山 魔曲 ジョックロック
アフリカンシンフォニーは和歌山県大会の
紀三井寺球場でも響き渡ります。コロナ禍で去年今年と寂しさはありますが例年は
ある面甲子園より迫力があるかもしれません。実は和歌山の高校野球の聖地紀三井寺球場の最寄り高校が智辯和歌山なのです。
進学校ではありますが在校生はこの応援は
勉学の時間を割いて参加する教育の場なのです。まあ中には納得していない生徒もいるかもしれませんが高校野球の名門としての誇りはこの時芽生えるのかも知れません。 この魔曲が甲子園で魔曲と知れ渡る試合は別にあるのですが関東に智辯和歌山を知らしめた試合があの帝京との死闘でしょう。帝京は奇跡の大逆転をしましたが
その裏力尽きサヨナラ負けした試合です。
あの試合で智辯和歌山の強さより帝京の
力を尽くした敗者の美学でより帝京の人気が高まったとききました。
 智辯和歌山も漫才の千鳥さんのネタにされるくらい全国レベルの人気を誇りますが
2000年の全国制覇の100安打の強烈な打線が特に印象的ですが それより4年前の
センバツが最初でしょう。1994年センバツでPL学園 宇和島東 横浜を破り 初の全国制覇を果たした智辯和歌山には翌年
に憧れた新入生が集いました。今は少し増えて14人くらいですが当時は学年10人程度しか入れず 今回の決勝の智辯学園の小阪監督も和歌山で智辯和歌山を希望しましたが智辯学園に行った悔しさを述べられていますがかなり狭き門なんです。
その新入生に日本一になられた中谷仁監督もいました。ちなみに中谷仁監督は市和歌山商業の近くが実家であります。そして
その同期に智辯和歌山で今でも最高の投手
高塚信幸さんがいました。新2年の96年センバツで球威のあるストレートとカーブの
2球種で一人で決勝戦まで投げ切り準優勝
しました。肩を壊して3年の夏全国制覇するチームの主力ではありませんでしたが、
故障がなければプロ野球に入っても素晴らしい選手になっていたと思います。今は
ドラフトでプロ入りしましたが残念ながら
結果は出ず今は淡路島でお寿司屋さんを経営されているようです。でもこの辛い出来事が高嶋仁さんに1投手に依存せず1回の攻撃で打ち勝ってジャンケンで勝ったら必ず先行を取る智辯和歌山の基礎が出来ました。だから中谷仁監督もこの投手陣を作り上げ万全な試合運びと智辯和歌山の伝統の打線で栄冠を勝ち取ったのです。

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