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シン・エヴァンゲリオン劇場版:||【感想&考察】

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【感想】
(ネタバレなし)
カメラワーク、造形美、構図、キャラクターの身体性…とにかく圧倒的ビジュアル。戦闘シーンは相変わらずアイディアもすごいですが、魅せ方やダイナミズムもアニメ最高峰。

映画全体としては正しいアート観賞の手順を教えてくれるかのような感覚。そのかいあって映画館を出たあと何気ない現実の光景が綺麗に見え、心動かされる。

この映画はアニメを用いた現代アートであり、「映画を観る自分が映画を通して自分を観る」という構造になっています。
観終わったあとに「自分はどのキャラクターが好きか?」「誰に最も共感したか?」「誰が嫌いか?」「誰の考えが理解できないか?」等と考えてみると、その時の自分の精神的な立ち位置を俯瞰的に見ることができます。
つまり、鑑賞時の年齢や価値観、精神的状態などでキャラクターの見え方がどう変わる(もしくは変わらない)かどうかで、キャラ同士の関係から相対的に自分の成長や変化、感情的ポジションを測れる設計になっているのです。

また、これまでのシリーズを観てなくても映画冒頭であらずじを要約してくれてますし、用語や台詞がチンプンカンプンなエヴァ初心者でも充分フィーリングで楽しめます。

過去シリーズや庵野監督について知ってる方が何倍も楽しめるのは言わずもがなですが、それを知ったり調べるのは劇場に足を運んでからでも大丈夫です。まだ観てない方はまずは映画館に足を運び、その目でダイナミックな臨場感と映像の快感を味わってみてください。一度は大スクリーンで見るべき映画です!

↓※以下ネタバレ注意↓





【考察】
――テーマ
繋がり・解放・心。
今までのシリーズを通して描かれた孤独、呪縛(閉塞)と対になると同時に、その間には逃げる、足掻く、裏目に出る、葛藤、トラウマ、といったプロセスがある。苦しみ傷つく心を抱えて、それでも生きる。どんなに悲惨でも、人は結果に応じて生きていく。どうしようもないからこそ、どうにかしようとする。できることを探し、やるしかない。その連続。開き直るしかない。
アニメ映画とテーマを絡めたアートとも言えるヴィジュアル表現や、庵野監督の知識や技術など様々なプロセスが詰まったアイディアも見所。

父母子、親子の繋がり、血縁もテーマ。エンドクレジットに庵野妻の名がバチコリ出まくるのも頷ける。

――キャラクターについて
アスカはシンジに心を開いているが、表面的には反発している。心はオトナだけど、厨二的反抗期な態度でシンジに接する。アスカは自分と向き合い済みで、シンジの心が全てわかっている。しかし、自分が自分(アスカ自身)を受け入れられない、わかっていてもどうしようもない拗ねた部分が、シンジへの態度として表れている。好かれない自分は好かれない態度をとってるからだというポーズであり自己正当化。無意識の表出。優しくしないという優しさでもある。シンジと本音で向き合うことで自分との決着をつけ、好かれてもいい、人を好きになっても良いと気付く。ツンデレの見本。足最高。

ケンスケはヲタクなので厨二心を良く理解している。ミサトやリツコ冬月に並ぶクールなオトナ枠。知識があり心の受け入れ間口も広いが、かといって村社会の圧力による同質化とは一線を置いた場所にいる。

対比対象として真逆なのがトウジの家にいたオッサン。ケンスケはアナザーインパクト(人の魂/心)に一番近い所で向き合うが、オッサンは家で背を向けている。
また、幅広い知識を持ち、人は本質的に異なりわかり合うことはない、だから人々を同一にして永遠の苦痛から救済するというゲンドウに対し、常識がすべてであり正義、人は本質的に同じであるべき、外圧的に均一化したいというオッサンは、帰結としては似ているが、その本質は色を抜くか同じ色に染めるかというくらいまったくの別物である。(抽象化と二極化)

マリは言葉チョイスが厨二だが、心と人への対応はオトナで、シンジのこともわかっていて受け入れられる。厨二の良き理解者。ラストはシンジとともにしなやかなオトナになる。

ミドリはお子様代表。サクラに自分を映し見て、少しオトナになる。
サクラはシンジに母性を発揮している。守ってあげたい母親的性格でお子様代表Part2。成長したら委員長ポジ。
委員長はアナザーインパクトに背を向けている。純粋なものや弱いものを受け入れることはできるが、異質に対する知識はなく未知への恐れと向き合うことができていない(ツバメが綾波に懐く理由)。厨二不足。

――「仕事って何?」「なんだろうねぇ。考えたこともなかった。」
仕事→生きるための営み→自然の摂理
逆説的人間讃歌→ 人間は人間だから特別なのではなく、自然の中にあってこそ その営みは普遍である。
特別だから素晴らしいのではない。かといって単一だから分かり合えるというわけでもない。単一な世界には自分しかいない。ゲンドウが目指した世界を書き換えるアディショナルインパクトは無限に自分と向き合い続け他者の存在しない夢の世界。ゲンドウの厨二ワールド。そこに妻ユイがいないのは当然である。

――厨二からの羽化→憧れの対象としてのオトナへ
厨二(自身のダークサイド、ネガティブマインド、他者と違う孤独)を経たからこそ人の気持ちがわかる。
シンジを責める人間は人の本質と向き合っていないダサイ大人か、まだ自分しか見ることのできない子ども。他者は自己の鏡であり、自分と向き合って受け入れた人がはじめて他者と向き合い受け入れることができる。夢見がちでナイーブで心を閉ざし自分の心に溺れる君たちは、弱さを認め現実と向き合い傷つき成長することで、クールなオトナになれる美しい可能性と、救済者たる資質があり、祝福を得る資格がある。メッセージでありテーマの一部。

――連鎖・繋がり・プロセス
心の繋がりは心を開き心と向き合う人との繋がりである。救済は心を閉じて自分と向き合い、次いで他者と向き合うプロセスを経て成立する。自分のダークサイドと向き合わないと人の心がわからない人間になる(シンジに常識を押し付け、アナザーインパクトに背を向けるジジイ)。
若き日のゲンドウは心を閉じ、自分と徹底的に向き合っていた。そして救済が訪れた。しかし、扉は1つしか開かなかった。そこからの光はあまりに強く、周囲は暗すぎた。一筋の光を失い、自分の姿すら忘れ、迷子になった。
子どもと向き合うことは自分と向き合うことであり、同時に他者と向き合うことである。
自分―子ども―母(妻)、ゲンドウがユイと会うにはシンジを経由する必要があった。だからこそシンジと向き合ったゲンドウはユイに会えた。

――綾波のシンジへ送る最後の言葉はダブルミーニング
名前一緒に考えてくれてありがとう→妻ユイからゲンドウへ
ツバメもっと抱きたかった→母ユイからシンジへ
あそこで暮らしたかった→綾波自身の言葉
綾波はコピーだがプロセスは固有である。経験により綾波は自己を獲得する。

――「エヴァに乗らなくていいようにしたかった」
母親はいつも子どもが安心で安全であるように願っている。しかし子どもはオトナになる。母親にとって概念的に子どもはいつまでも子どもだが、成長した子はいつだって自分から巣立っていく。それもまた自然の摂理である。
母親は子どものままでいてほしいという願いと、我が子が成長していく喜びの両面を併せ持つ。ユイは停滞するゲンドウの願いと変化するシンジの願いの両翼を繋ぐ。

――魂とアニメ(世界を書き換えるアディショナルインパクト)
全てを思い通りにする→画面を支配しコントロールするアニメからの脱却→現実へ
実写撮影は画面全てを支配できない。アニメだからこそできる比喩。アニメを観るのは現実にいるあなた、アニメと現実を繋ぐのはあなたの心。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』はアニメと現実を補完する映画。夢や理想を現実に繋げよう。

自分しか見れない夢→夢は共有され共感されてこそ作品になる→誰もが見れる現実(映画)
自分の見る夢を自分の思い通りに表現できるのがアニメ。しかしアニメ(映画)は1人の力では完成しない。制作、配給、そして観客がいてはじめて作品となる。アニメを通し、心で繋がり、共鳴する。独り善がりは嫌われる。冬月のようについてきてくれる人もいるが。

ところで冬月はシン・ゴジラの牧悟郎っぽい。「君に必要なものは全て揃っている」が「私は好きにした、君らも好きにしろ」的な。牧は破壊者ゴジラを解放し、冬月は破壊者ゲンドウを支援する。そして牧は人間を試し、冬月はマリを試す。そうして最後に消えてしまう。ある種の親心かな。


以上です。
一度観た直後の感想&考察なので、セリフや細部が間違ってたり抜けてると思いますが、映画を観て各自脳内で補完していただけると幸いです。

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