「学校、べつに行かなくてもいいよ」で、子供は救われる。

「教育とは、そもそも取り越し苦労からはじまる」とは司馬遼太郎の言葉。来年に迫った坊やの小学校入学を前に、日々取り越し苦労をしている。
昨日はいじめ自殺について、あれこれ調べてみた。
この問題について以前から不可解だったのは、親の観察と注意のありようである。どうして、子供の危機的状況に気づかなかったのかという疑問だ。
当然なかには、目に見える傷を負っているのに放置したという親もいる。荒れている家庭ではよくあるケースだ。
だが調べてみると、おおかたは、子供自身がいじめられていることをひた隠しにして、親もそれを察知できなかったというものらしい。
「それにしてもなぜ?」という疑問は依然として残るが、私にも思いあたる体験がある。
小学校四年生のころ、クラスの女子数名からいじめを受けたのである。
いじめられ始めたころ、「これは、親に知られるわけにはいかないな」と心底思った。それは、知られたらかっこう悪いというより、生んでくれた親に申し訳ないという心情がまさっていた。
また、我が母は激情型なので、その件で学校に乗り込みかねない。そんなことをされたら、いよいよ身の置き場がなくなる。そんな破局を回避するために悩みに悩んだ。
結局、この難局は暴力で解決された。いじめの首謀者をボコったのである。これで、1週間ほど続いた修羅場は終焉を迎えた(ちなみに、「首謀者」はクラス内ヒエラルキーですっかり地位を落とし、いじめの新たな標的となった)。
それはともかく、私の場合、いじめは仕掛けてくる連中との闘争というより、親との関係が重圧であったのだ。
万人にあてはまるとは思わないが、いじめ問題解決の糸口は、やはり親の向き合い方にあるのではないかと思う。
では、どう向き合えばいいのか。次回私案を述べたいと思う。

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