見出し画像

【原発事故・生業訴訟】原告団リーダーが見据える「裁判の先」(ジャーナリスト牧内 昇平)

 ●メモ「生業訴訟」
 福島、宮城、茨城などに住んでいた3000人超の住民が国と東電に原発事故への賠償を求めて起こした集団訴訟。2013年に提訴し、2017年の福島地裁、今年9月の仙台高裁と連続で国と東電の法的責任を認める判決を勝ち取った。

 9月30日に言い渡された「完全勝利」判決から2か月余り。福島原発事故における国と東電の責任を追及する「生業を返せ、地域を返せ! 福島原発訴訟」(生業訴訟)は、最高裁に審理の舞台を移した。3000人超の原告団を率いる中島孝団長は今何を思うのか。裁判の勝利の後には何を目指しているのか。ざっくばらんに聞いた。

画像1

経営するスーパー「中島ストア」で働きながら取材に応じる中島さん(筆者撮影、以下同)

 
 ――9月30日の控訴審判決は、国の事故防止のための対応を「著しく合理性を欠く」と指摘し、その法的責任を認めました。この判決の評価を改めて聞かせてください。

 「明快な言葉で国の責任について触れたよね。非常に胸のつかえがおりた。原発は国策として進められてきた歴史があるでしょ。その国が反省しなかったら、原発政策が改まるはずはない。またもや安全神話の復活につながる。そう思ってこれまで裁判を闘ってきた。

 現状の国の方針では、電力全体に占める原発依存度は『20~22%』だ。国は明確に原発回帰の方針を示している訳だよな。福島に住んでいる俺らとしては、『事故が起きたらこんな大変な状況になるのに、また原発か』という怒りがある。国の無反省な体質を切り替えないとだめだと思っていたんで、あの判決は心にしみたよ」

 ――当日、法廷は盛り上がったでしょうね。

 「裁判長が長い判決文を読み上げるでしょ。『国は規制当局に期待される役割を果たさなかった』という部分を読んだ時、俺は完全に勝ったと思った。親指を立てて原告団の仲間にガッツポーズしたよ。

 閉廷する時、俺は裁判長に聞こえるように『いい判決書いた!』って拍手した。そこらじゅうで『よかった』『勝った』って声が上がって、抱き合って喜ぶ人もいた。ほかの裁判も傍聴したことあるけど、あんな法廷は初めてだった。うちの原告はほんとに熱いからな」

 ――でも、国と東電は最高裁に上告しました。

 「上告するだろうなと予想はしていた。国民の目線からすれば道理にのっとったすばらしい判決だけど、あそこまで書かれたら『〝世界で最も厳しい規制基準〟なんて本当か』って疑いが出てくるじゃん。国がなんとか崩そうとかかってくるのは当然だよ」

「あんたは裁判やれ」

 ――控訴審判決は確定しませんでした。今の気持ちは。

 「今一番思うのは、原発事故は水俣病とか全国の公害問題と同じだということ。国は危険だと分かっていたのに、目先の企業利益を優先した。事故が起きると、一気にすべての被害者を救済しようという抜本的な対策をとらず、『分断統治』しようとした。勝手に地域で線引きして、『ここまでしか被害はないでしょ』と。だから、住民の中でいがみ合いが始まった。全国の公害問題と同じ構造でしょ。

 水俣病は今でも認定されない患者さんたちが裁判を続けている。イタイイタイ病だって認定されない患者さんがいる。国民の痛みなんか屁でもない。被害者がどれだけ苦しんでいても一切そこに同情しない。本当に冷酷な国の姿。これはずっと一貫してるんだよね。ずっとくり返されて今に至っている。ここを断ち切らなかったら、俺たちの苦しみは解決しないと思ってる」

 ――中島さんは公害問題にもともと詳しかったのですか?

 「詳しくない。俺はほんとに無知だったからね。30年以上前、魚の行商をしていたおやじとお袋がスーパーを始めた。これがあまりに大変で、お袋が『とんでもねえことをはじめてしまった』と泣いたんだ。俺は当時、農業共済組合で働いていたんだけど、見るに見かねて退職し、商売を手伝うことにした。

 そこからは朝から晩まで刺身切り。いつ店が潰れるか分からない状態で精いっぱいだった。社会問題なんかに首を突っ込んでいる時間は本当になかった。新聞だって読んでなかったもんな」

 ――震災当時は魚屋や民宿でつくる組合の組合長だったそうですね。

 「漁はできないし、本当に追いつめられたよ。組合員のみんなは『このままじゃ首を吊りそうだ』と言っていた。どうにか助けられねえかと二本松で開かれていた相談会に行った。そこで出会ったのが馬奈木厳太郎弁護士(現・生業訴訟弁護団事務局長)だった。

 馬奈木さんにお願いして東電と賠償交渉をした。請求が認められるものもあったけど、東電も抵抗し、壁があった。そうした中で、国も含めて裁判をやるしかないという話になった」

 ――原告団長になったのは、どういうきっかけですか。

 「2012年の年末、馬奈木さんと相馬の駅前で中華料理を一緒に食べた。ビールを飲んでたら、いきなり『中島さん、原告団長になってください』と言われたんだ。とんでもねえと思ったよ。裁判だけでもとんでもねえのに原告団長かよって。

 家に帰ってかみさんに相談した。俺が『店、潰しちまうよな』と言ったら、かみさんは腕組みしてしばらく考えて『組合の賠償も進まないんだべ。結局は裁判するしか方法はないんだべ。だったらしょうがねえ。店は私がなんとかすっから、あんたは裁判やれ』と言った。驚いたね。実際、その後は長男に刺身の切り方とか教えて、俺がいないときは店を切り盛りしてくれてるよ」

生業訴訟②

控訴審判決が言い渡された直後にマイクを握った中島さん(9月30日、仙台市)

裁判を闘う「理由」

 ――なぜ、中島さんに白羽の矢が立ったんでしょう。

 「弁護士たちと一緒に、東電の社員を福島に呼んで賠償の交渉をしたことがある。その時、俺は生きてまだバタバタ動いているヒラメを持っていった。『俺らはこういう商売をしてきたんだ。それが、あんたらの放射能のせいで首吊るかもしれないようになってんだ。救済しろ!』なんてことを言った。だから弁護士たちも『こいつは、頭は悪いけど性格は悪くない』と思ったんじゃねえの?(笑い)」

 ――数千人規模の原告団をまとめるのは大変だと思います。

 「ところが俺はなんにも苦労ねえんだよ。主要メンバーの中の民主商工会とか農民連の会員さんは、それまでも税金上げるなとか遺伝子組み換え作物反対とか、運動をしてきた人たちなんだよ。

 彼らは最初から言ってくれた。『団長、この裁判は金目じゃねえべ。負けて1円も取らんねえったって、俺らは団長が悪いとか弁護士が悪いとか思わねえ』と。原告団を増やすときも、その人たちが一生懸命跳ね回り、背骨を支えてくれた。俺なんか言わば添え物よ」

 ――でも、まとめるのは大変でしょう。

 「控訴審が始まる時だな。一審(福島地裁)では、会津地方が完全に賠償から除外された。その人たちにも『お金かかるけど裁判続けてください』と言わなきゃならない。こりゃ気の毒だよなと俺は思った。

 そこで、もらえねえ人ともらえる人が出てきたのでは気の毒だから、賠償金はいったんプールして原告団で分配しようと提案した。せめて裁判の印紙代2万円くらいは、お金をもらえなかった人たちにも配ろうと言ったんだ。原告団の総会でそう言ったら、みんなが『そうだそうだ』と乗ってくれた。もらえる人ともらえない人との分断を俺らは埋める、となった。俺がやれたのってそれくらいだよ」


 ――中島さんは裁判の集会で話す時、「我々の責任」という言葉をよく使います。それはなぜですか。

 「震災が起きた時、石原慎太郎東京都知事(当時)が『日本人への天罰だ』というようなことを言った。お前には言われたくないと思ったけど、実際は胸に刺さるものがあったんだ。

 震災前から原発を止めるために裁判を続けていた人たちもいたのに、俺は何をやっていたのか、ということなんだよね。生活の忙しさにまみれて、全く無関心だった。俺たちは何も悪いことをしてないつもりだったけど、でも無関心だった。東電や国がやってきたことを傍観していた。それは悪いことだったよな、加害に加担したってことだよな、という思いがあんのよ」

 ――生業訴訟で争われている「国の法的責任」とは全く別の次元で、中島さんも責任を感じている。だから裁判で闘っているということですか。

 「このままだと、世の中を悪くする方向に加担しただけで人生が終わることになるからな。やっぱ死ぬ時にさ、のびのびと死ねねえべしさ。俺はいいことやったよな、と思いながら死にたいっていう欲はあるんだよ」

原発ありきを捨てること

 ――原告団長の中島さんですら、国の原発政策を傍観してきたという意味で、原発事故に「加担」した意識を持っている。このことがポイントだと思います。そうであれば当然、東京や大阪に住んでいる人も「加担」してきたことになります。だから、生業訴訟判決が国の責任を断罪したのならば、全国民が「自分たちが断罪された」という意識を持つ必要があると思います。

 「その通り。俺ら自身の姿勢が断罪されたんだ。

 でも、同時にな。そういう道義的なことを言ったらみんな疲れ果てて、そっぽを向いちゃうよ。『自分たちが断罪された』と言われても、つらくなるだけで脱原発なんか進まない。そうじゃなくて、もっと魅力的なビジョンがあることを見せなければいけないと思う。それが俺らの責任なんだよ」

 ――魅力的なビジョンとは。

 「原発なしで豊かに経済を回す構想のことだ。たとえば脱原発に舵を切ったドイツは、森林活用にも力を入れ、林業関連で多くの雇用を生み出している。そういうことを知れば、阿武隈山地でもなんとかなんねえのかって考えられるでしょ。

 これまで、俺たちは『経済発展のためには原発が欠かせないんだ』と言われ続けてきた。ほかのビジョンが頭の中にないから『原発はダメ』という意思決定ができなかった。別な経済のビジョンがあれば判断は変わる。人間の頭ってのは、そういう風にできていると思うんだ」

生業訴訟③

生業訴訟の今後の展開について会見を行った中島さん(10月13日、福島県庁)

 ――中島さんの目線は、裁判で勝ったその先にあるということですね。

 「そう。最高裁まで勝つことはもちろん目指すよ。でも、それでは終わらない。今までこれしか道はないと思わされてきた『原発ありきの経済のビジョン』を捨てること。そして『危険な原発を我慢して使う』という方向ではなくて、『新しい経済のビジョンを掘り下げる』方向にみんなの目線を向けること。それが俺らの本当の勝ち切りなんだよ。そういう世論の変化を作ることが、原発事故被害者としての責任の果たし方だと思う」

 ――そうすると、福島の人の被害救済というより、社会変革運動って感じですね。

 「そうそう。社会変革だよ。被害救済はもちろん生きるためだから、やっていかないといけない。首を吊るくらいになってるわけだから、もちろん必要なんだよ。だけど、そこだけじゃ止まらないよな。

 息子や孫らが先行き明るい見通しを持って、のびのびと生きられるところまで見届けたいと思うんだよ。原発を止めるだけじゃなくて、もっとさらに進んで、コロナでおびえることのないような、貧困でご飯も食えない人がいないような社会にしたいと思ってるよ」


 まきうち・しょうへい。39歳。東京大学教育学部卒。元朝日新聞経済部記者。現在はフリー記者として福島を拠点に取材・執筆中。著書に『過労死 その仕事、命より大切ですか』、『「れいわ現象」の正体』(ともにポプラ社)。個人サイト「ウネリウネラ」。



よろしければサポートお願いします!!